断章538

 2022年11月、「国連」の世界人口推計は、世界の総人口が80億人を突破したと明らかにした。1950年の世界人口は、およそ25億人だったという。世界人口はまだしばらく増大するが、19・20世紀のような経済成長と生活向上は、困難になるかもしれない。というのは、資源(エネルギー)探索と食糧増産は続いているが無限ではない。「人口増加や気候変動により、近年、世界的な食料不足が問題になっているが、ロシアのウクライナ侵攻で、事態は一気に深刻化した。穀物価格は高騰し、途上国では暴動も勃発している。そして、食料の多くを輸入に頼る日本でも、憂慮すべき事態が進行している。長きにわたる減反政策で米の生産が大きく減り続け、余剰も備蓄もない状態なのだ」(山下 一仁)。

 また新たにAI化・ロボット化が進みつつある。「経済のより広範なレベルがデジタルの影響を受ける。何百万人もの人々が職を失ったり、収入を減らしたりするなか、貧富の格差はさらに拡大するだろう。将来のサプライチェーンショックを防ぐために、先進国の企業は低コスト地域から高コストの国内市場に生産を戻す。しかし、この傾向は、国内の労働者を助けるのではなく、自動化・AI化をさらに加速させ、賃金に下押し圧力をかけ、ポピュリズムナショナリズム、排外主義の炎をさらにあおるだろう」(ヌリエル・ルービニ)。

 だから、わたしたちは、大混乱・大波乱・大変化に備えなければならないのである。

 

 ところが、「左翼」インテリ・大学知識人たちは、この大混乱・大波乱・大変化に対して、まるで「馬鹿の一つ覚え」(ある一つの事だけを覚え込んで、どんな場合にも得意になって言いたてること)のように、かつてマルクスレーニンが見た“コミュニズムという夢”(別名を“資本主義の終焉”という)を呼び起こし、担ぎ上げることで答えている。

 

 周知のように、「20世紀は人類が最も多くの血を流し、激しく憎しみあう時代になった。20世紀は妄想の政治とおぞましい殺人の世紀でもあった。過去に例を見ない規模で狂気が制度化され、まるで大量生産を思わせる組織的なやり方で人間が殺された。人類を幸福にするはずの科学の可能性と、実際に歯止めがかけられなくなった政治の邪悪さは、恐ろしいほど対照的である。人類の歴史を振り返っても、殺人がこれほどあちこちで起こり、多くの人命が失われたことはなかった。不合理な目的のために、特定の人間を絶滅させるべく、これほど集中的かつ持続的な努力が傾けられたこともなかった。

 たしかに、これまでも暴力が猖獗(しょうけつ)をきわめた時代はあった。中世には、中央アジア遊牧民の大集団が中央ヨーロッパを席巻し、中東にまで進出して多くの人命を犠牲にした。当時の人口が今よりずっと少なかったことを考えると、その死亡率は現在よりもはるかに高かったと言える。しかし、このほかの暴力が激化した例を見ても、それらは基本的には突発事件だった ―― 激しい暴力のために多くの血が流されたが、それは持続しなかったのである。大量虐殺、とりわけ非戦闘員のそれは、力の対立や征服と直接結びついたものであり、念入りな計画にもとづく一貫した方針にそって行われたわけではなかった。

 20世紀という時代が政治史に悲惨な足跡を残したとすれば、まさに念入りな計画にもとづく一貫した方針によって大量虐殺が行われたことなのである」(ズビグネフ・ブレジンスキー)。

 そこには、マルクスの、レーニンの、スターリンの、毛沢東の、ポル=ポトの、金 正日の“御名”による“革命事業”の膨大な犠牲者が含まれている。

 だが、「左翼」インテリ・大学知識人たちは、「なにもかもスターリンが悪かった」、あるいは「レーニンから疑え」、あるいは「問題の始まりはエンゲルス」と片づけることで、今もなお、マルクスの“問題解決策”は有効であるかのような宣伝をしているのである。

 言い換えれば、「マルクス主義の名のもとに革命が行われれば、たとえそれが専制支配へと堕落しても、その過誤は、異端的偏向にこそ帰せられるべきであるが、マルクスにもその正統的解釈者にも帰せられない ―― これが、〈聖職者〉としての知識人に典型的な(引用者:救いがたい)思考様式である」(レイモン・アロン)。

 

 「プロレタリアート独裁によって、生産手段を社会化(最初は国有化)し、計画経済による経済運営を通じて社会主義に進んでゆく」という、マルクスの“問題解決策”は、誤りである。