断章501
「“資本主義”とは、搾取と収奪、抑圧と差別、格差と疎外の社会であり、“社会主義”とは、友愛に満ち、公正で、人間の尊厳を守る社会である」と、「左翼」インテリは宣伝する。
「左翼」インテリは、おおむね、選挙にさいして「日本共産党に期待します」と発言する、日本共産党の同伴者・同調者である。たとえば、思想家・内田 樹は、「100年スパンで物を考えられる政治勢力は、日本では日本共産党以外に存在しない」と、大甘な評価である。
そこで、日本共産党の過去にタイムスリップして、日本共産党が、「100年スパンで物を考える」政党であるのか、マルクス・レーニン主義(科学的社会主義)のドグマに囚われた政党であるのかを見てみよう。
まず、61年前の、日本共産党1961年綱領(第8回大会)から一部を引用する。
「日本人民の真の自由と幸福は、社会主義の建設をつうじてのみ実現される。資本主義制度にもとづくいっさいの搾取からの解放、貧しさからの最後的な解放を保障するものは、労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立、生産手段の社会化、生産力のゆたかな発展をもたらす社会主義的な計画経済である。党は、社会主義建設の方向を支持するすべての党派や人びとと協力し、勤労農民および都市勤労市民、中小企業家にたいしては、その利益を尊重しつつ納得をつうじて、かれらを社会主義社会へみちびくように努力する」。
旧・ソ連の崩壊後、今や日本共産党は、選挙(集票)対策上、こうした“一般受け”しない過去の「党文献」をまるで無かった物のように扱っている。しかし、日本共産党は、まだ権力を握っていないので、中国共産党のように過去を都合よく隠蔽することはできない。「天知る、地知る、我知る、人知る」なのである。
日本共産党は、「61年前の古証文にすぎない」と言うかもしれない。
だとすれば、わたしは問う。「党綱領とは、そんなに軽いものなのか?」、「君たちは、なぜ、いまだに共産党と名乗っているのか?」と。
61年前、日本共産党は、旧・ソ連を“社会主義”であるとプロパガンダしていた。「進歩的知識人」たちも、「そうだ、社会主義はすばらしい」とオウム返しで応じた。
その頃のソ連について、コンスタンチン・サイミスは、『権力と腐敗』でこう述べている。
「ソ連社会は頂上から底辺まで、腐敗に蝕まれている。割りのよい仕事を回してもらおうと、ウォッカの瓶を職長に送る労働者から、地下ビジネスマンをかばって、数十万ルーブルを受け取っていた政治局員候補ムジャヴァドナゼに至るまで、客引きを見逃してもらうべく警官に10ルーブルをつかませる街娼から、国家の費用で豪勢な別荘を建てた元政治局員、文化大臣のエカチェリーナ・フルツェワまで ―― みんな汚職に染まっている。
私はこの国に生まれ、およそ60年間生活した。子供のころから、物心ついて以来の全生涯を通じて、私はソ連社会が年を追って腐敗の度を深め、1960~70年代に至って、腐敗した指導者が腐敗した人民を支配する国になってしまったのを、この目で見た。ソ連ではいまや、汚職、腐敗は全国民的な現象になっている。(中略)
…ソビエト人は、一切れの肉のために商店の売り子に10ルーブルを与える。電話を取り付けてもらうために通信省の職員に300ルーブルを、また国営アパートを手に入れるべく地区執行委員会の幹部に3,000ルーブルを贈るのである。
もし、これらの贈賄をしなければ、彼の家族は肉を買えないし、電話の取り付けに五、六年も待たねばならず、大家族が小さな市営アパートの1室で、何年も我慢しなければならないことになる。(中略)
たとえ支配階級のエリートが、汚職に対して断固たる闘争を挑んだとしても、その試みは失敗を運命づけられている。ソ連のありふれた汚職の根底には、国家を一手に統治している共産党の、全体主義的な支配方式が横たわっているからである。
その権力は、法律によっても自由な新聞によってもチェックされない。そして、制限されない権力はその本性として、不可避的に、権力者を腐敗させ、腐敗、汚職の現象を次々に生み出すのだ」。
この『権力と腐敗』では、“社会主義的な計画経済”なるものの真実 ―― たとえば、現実にはまったく稼働していないプラントがフル稼働していることにされていた ―― が、暴露されている。