断章539

 革命(思想)は、空から降ってはこない。

 レーニンロシア共産党ボリシェビキ)の革命(思想)は、彼らの時代=彼らの社会のどのような問題に対する、どのような解決策であり、その解決策は諸問題をきちんと解決できたのか? 

 

 「ロシアでは11~12世紀までは、農民の大部分は自由で自治を享受していたといわれる。しかし、13~15世紀の間に徐々に農奴化され、1497年と1550年の『法令』によって『聖ユーリの日 (旧暦 11月 26日) 』の前後2週間以外、農民がその土地から離れることが禁止されるようになり、イワン4世 (雷帝) によってこれも事実上廃止されてしまった。

 このような農民の土地への緊縛は、1649年の会議法典で確立し、次いで1723年ピョートル1世(大帝) によって奴隷 (ホロープ) と同様に農奴にも人頭税が課せられるようになり、それまでの農奴と奴隷の区別もなくなり、完全に不自由な農奴となった。

 18世紀になるとこれら農奴は、(1) 国有地農民、(2) 王室領地農民、(3) 地主領農民、(4) 農奴占有工場農民の4つに区分されるようになった。(3) の地主領農民は最も悲惨で、家族と切り離されたり土地と別に売買されたり、さらに地主の一方的意志で軍隊にやられたり、シベリアへ流されたりした。

 このような農民はときとして地主や政府に対して一揆を起したが、なかでも 17~18世紀の I・I・ボロストニコフ、ステンカ・ラージン、E・I・プガチョーフの乱が有名である。ようやく19世紀に入って、農民を家族から切り離して売ったり、土地をつけないで競売にしたりすることが禁じられ、また1842年の法令で地主に金を支払って解放される者も出てきた。しかし、農奴の悲惨な状態は1861年の“農奴解放令”発布まで基本的には大きく変ることがなかったし、その後も、農民たちの権利が十分に保障されることはなかった」(ブリタニカ国際大百科事典などを再構成)。

 

 そのような「ロシアの政治文化では次のような点が強調されてきた。民主主義よりも絶対主義、強い指導者を求める願望や無政府状態への恐怖(ロシアは巨大で扱いにくい帝国であって、無政府状態と国内の反対が帝国を解体しかねないという恐怖が深刻であった)、侵略の恐怖(何世紀にもわたってロシアは、近隣諸国を侵略し、また侵略されてきた、地理的に脆弱な大陸国家であった)、後発性についての不安と恥じらい(ピョートル大帝以来、ロシアは国際競争に活力を持っていることを証明しようとし続けてきた)、そして秘密性(ロシア人の生活の貧しい部分を隠蔽しようとする願い)などである」(ジョセフ・S・ナイ ジュニア, デイヴィッド・A・ウェルチ)。

 

 「1825年、ナポレオン戦争に従軍してフランスまで行き、パリ滞在中、フランス議会の討論会や自由主義的な雰囲気を持つ大学の講義を聴講したり、政治的意見を掲載する新聞を読むなどして、ヨーロッパ諸国の政治・社会制度に触れ、祖国ロシアのそれと比較して格段の進歩を遂げていることに衝撃を受け、また、戦争に従軍している農民出身の多くの兵士に直接接して、彼らの境遇の劣悪さを肌で感じ、国家・社会の改革を強く意識するようになったロシアの青年(貴族)将校たちは、“デカブリストの乱”を起こした。

 しかし、反乱は鎮圧され、数百人の参加者が逮捕され、裁判にかけられた。裁判では、反乱に関与した者たちは、革命的な活動や帝国に対する反逆罪などで有罪判決を受けた。その後、有罪判決を受けたデカブリストの一部は、処刑された。彼らはエカチェリーナ広場に連行され、処刑された。一方、他の参加者たちはシベリアなどに流刑にされた。

 デカブリストの処刑は、ロシア帝国において政治犯に対する厳しい処罰の象徴となった。ロシア帝国においては、反体制派・農民反乱に対する弾圧は非常に厳しく、政府は反逆者を徹底的に取り締まることで、反政府運動を鎮圧しようとした」(Wikipediaなどを再構成)。