断章72

 韓国の『検定版 高等学校韓国史』では、「 Ⅱ 高麗と朝鮮の成立と発展」の「まとめ」として“重要内容”が列記してある。「1.高麗は後三国を統一し、渤海遺民を受け入れて民族を再統一した。その後王権を強化して体制を整備し、儒教理念に立脚した中央集権国家として発展した。2.高麗は豪族が中央貴族化して門閥貴族社会として発展した。武臣政権が樹立した後、モンゴルの侵略と干渉を受けて権門勢族が新しい支配勢力になり、新進士大夫が成長し始めた。3.高麗は宋と親善関係を維持してさまざまな交流をしたが、契丹やモンゴルなど北方民族とは絶えず抗争を繰り広げた。開京遷都後は元との交流が活発になった。4.朝鮮を建国した新進士大夫はさまざまな制度を整備し、儒教中心の中央集権体制を確立した。15世紀後半に成長した士林は士禍にも負けず、政権を掌握して朋党政治を展開した。5.朝鮮前期にはハングルが創製され、さまざまな器具が発明されるなど民族文化が大きく発展した。16世紀には性理学、書院や郷約など、士林文化が発達した。6.朝鮮は事大交隣を外交の基本政策とした。しかし、任辰倭乱と丙子胡乱を経て国土全体が荒れ果て、国家財政が苦しくなった。」

 これだけである。つまり、「素晴らしい朝鮮民族は、高麗も朝鮮も自立して立派にやっていたのだが、日本とモンゴルがブチ壊してしまった」と、言いたいのだ。

 

 後世についても、同じ構図で語られる。

 「『優秀な韓国はもっと豊かになれるはずだったのに、日帝の搾取のせいでそれが遅れ』『精神的主柱であるべき名前や文字、国王を日帝に奪われた』『韓国人は仲間内で足を引っ張り合うことなく、団結して日本帝国主義に勝った』

 このように何でも日本のせいにすれば、複雑な国内事情や党派争いを暴露する必要もなく、民衆を発憤・感動させやすい。おまけに日本には反日日本人・進歩的文化人なる厄介な存在があり、自ら団結して反日・反国家教育を押し進めてきた。こうして国外と国内で反日が手を結び合うという奇怪な現象に至っている。」(『立ち直れない韓国』黄 文雄)

 

 一方わたしたちは、「李朝の社会がどれほど、おぞましいものであったのか、李朝時代がどのような歴史的な経緯によってもたらされたものか、ということを知らずには、今日の韓国人の心理や、その行動様式を理解することができない。

 北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国と称しているが、李氏朝鮮がまさに名前だけ変えて存続しているといえる。文字どおりの虐政が行われており、民主とも、人民とも、まったく無縁である。李朝という下敷きがなければ、北朝鮮のような体制は出現しえなかったろう。

 韓国は・・・国内における民主的覚醒が進んでいるものの、青瓦台として知られる大統領官邸への権力の過度の集中や、法を軽視した人治主義や、収賄構造が深い根を張っているのは、韓国民が李朝の呪いから抜け出すことができないからである。

 李朝では、権力がすべてだった。権力の座にすわった者が、暴虐の限りを尽くした。法は権力者によって、好き勝手に用いられた。権力の奪い合いは、凄惨をきわめた。民衆はただ搾取の対象となった。

 権力者は美辞麗句を弄(モテアソ)んだが、人命も、道徳も、顧みることがなかった。民衆は苛酷な社会のなかで生き延びるために、偽ることが日常の習い性となった。」(「朝鮮史」萬 遜樹)と見ている。史実は、これからさらに明らかにされる。

 

 まず確認しておくべきは、朱子学の弊害である。「(李朝朱子学の絶対性と硬直化は、儒教経典の一字一句の解釈にこだわり、たまに我田引水してこじつけ、世の中をすべて正邪善悪の価値観で測り、白か黒かをはっきりさせようとすることだけにエネルギーを費やしたのだ」(『立ち直れない韓国』)

 例えば、「一人の王妃が死んだことについて、服喪を一年間にするか、三年間にするか、天下国家を論ずる大儒・名儒といった儒学者の重鎮が、飽きもせずに延々と十数年の歳月をかけ、こうすべきであるとか、ああすべきであるとかを命をかけて闘い、最終的には、国王の鶴の一声で決着すると、敗者に待っていたものは、刑場行きと流刑ばかりであった。たとえば、東人党首、李潑は、捕らえられ拷問死の後、弟と老母、息子たちは杖死、婿、孫たちは圧死、奴婢(奴隷)全員が厳罰に処せられた」(同書)のである。

 それだけではない。「一旦悪人と断罪されれば死んだ後でも、非難を免れることを許さない。全ての人間の善悪を明確にし、当人だけでなく、子孫にも永遠にその結果を及ぼすのが中国・朝鮮のような本場の儒教の考え方である。それと同時に、『水に落ちた犬を叩く』という言葉が示すように、一旦権力の座から落ちたものは、過去の罪が容赦なく暴かれ、とことん弾劾されるのが朝鮮の伝統でもある。(引用者注:だから「戦犯日本は永遠に謝罪せよ」となる)

 最近の例で言えば、韓国併合時に日本政府に協力した李完用は戦後、親日反民族の元凶としてやり玉に挙がっただけでなく、死亡後80年たった2005年に親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法で、子孫の土地が国家に没収された。」(『本当に悲惨な朝鮮史』)

 

 「韓国の憲法第13条は、次のように規定しています。

  1. すべての国民は、行為時の法律により犯罪を構成しない行為により訴追されず、同一犯罪に対して重ねて処罰されない。
  2. すべての国民は、遡及立法により参政権の制限を受け、又は財産権を剥奪されない。
  3. すべての国民は、自己の行為ではない親族の行為により、不利益な処遇を受けない。

 ところが、憲法裁判所はこの憲法の規定に反して作られた『親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法』を合憲とする決定(2011年3月31日)を出しています。」

 「つまり韓国には、『国法』に優先する“国民情緒法”と称すべき超越的な法が事実上存在するということです。(中略)これは簡単に言えば、『国民情緒に合致するものなら、司法はあらゆる実定法に拘束されない判断を下せる』という、民主国家にあるまじき超越的な法規の考えが、韓国には厳然たる不文律としてあるのです。(中略)韓国の歴代民主政権は、明らかに『国民主権』の意味をはき違えているのです。」(『北朝鮮化する韓国』)

断章71

 「14世紀になると、社会不安や王室の内紛によって元の支配が揺らいできた。・・・朱元璋が集慶(現・南京)で政権を立て、1368年に大都を陥落させて元をモンゴル高原に追いやった。同年、朱元璋は南京において即位し、明の初代皇帝となった。・・・明が建国するや、即位直後から元の支配から離脱する動きを示していた(高麗の)共愍王はただちに外交使節を送り、翌年、元との関係を断絶して明に朝貢し、冊封を受けることにした。しかし、共愍王は1374年に親元勢力に暗殺され、辛禑が即位して元と明に両属することになった。」(『韓国朝鮮の歴史』)

 このとき高麗で起きていたことは、「元」と「明」のどちらに事(ツカ)えるのかを争う「事大主義」党争である。現状維持でよしとする親「元」派・仏教派の旧貴族支配層と、現状打破を求める親「明」派・儒教派の新興士大夫層との対立である。

 (韓国の『検定版 高等学校韓国史』から、できる限り取り除かれ、あるいは薄められているのが、どちらに事(ツカ)えるのかを争った「事大主義」党争である。史実を直視できないのだ。)

 

 「武人・李成桂は、1388年、明に対抗するため遼東半島に向かうはずであった遠征軍を引き返し、クーデターを起こして政権を掌握、1389年に恭譲王を擁立すると親『明』派・儒教派の新興士大夫層の支持を受けて体制を固め、1392年に恭譲王から禅譲される形で王位につき、朝鮮王朝(李氏朝鮮)を興した。1394年、旧高麗勢力の叛乱を懸念した李成桂は、恭譲王はじめ主だった高麗王族を殺害した上で、王姓を名乗る者の身の安全を保証して一ヶ所に集め、移住先へ移動させるとして船に乗せ、それを沈めて全員を溺死させた。」(Wiki

 

 「李成桂の新王朝は、激しい争いをともに戦ってきた子飼いの部下たちと、鄭道伝(チョン・ドジョン)をはじめとする儒学を身につけた士大夫官僚たちという、『武』と『文』の連合的性格をもっていた。新王朝はその中で、文=学問を国家運営の基軸にすえる政策をとっていった。李成桂の幕僚として新王朝設立に抜群の功績をあげた鄭道伝は、国家の要職を独占し、その権勢は他にならびのないものになった。」(『韓国朝鮮の歴史』)

韓国海軍の駆逐艦「クァンゲトデワン(広開土大王)」による日本哨戒機レーダー照射のときに一緒にいた韓国海警察庁の警備救難艦「5001 サンボンギョ(三峰号)」の、“サンボン”は、この鄭道伝の‟号”である)

 

 「しかし、このような功臣たちの政治には不満をもつ者が多く、それが次期王位をめぐる王室の内紛と結びついた。太祖(李成桂)には先妻に6人、後妻に2人のあわせて8人の男子がいたが、彼は末子の芳碩をつぎの国王にするつもりでいた。父王の創業に大きな功績があった五男の芳遠は、1398年、芳碩の教育にあたっていた鄭道伝が、先妻の子である自分たちを除く陰謀を企てたとして殺害、異腹の末の2人の弟七男芳蕃と芳碩までも殺した」(『朝鮮史』)のである。

 

 李氏朝鮮は、中国の諸制度を引き写して諸制度を整備したが、核心は、儒教とりわけ朱子の学(朱子学・性理学)による国家統治から社会習俗に至るまでの徹底的教化である。その徹底性は、まるでカルトである。しかも、朝鮮では、つねに血まみれの「党争」がつきものだった。

 

 「権威と権力の一致をめざした政権のなすことは、いかにも暴力的であった。1474年には明国の法律を用いて、火葬者は百叩き、埋葬しないものは墓暴きと見なして斬り殺すことにした。それでも霊力の宿る骨がほしくて、骨を掘り起こしてかますに隠している民衆がいた。これは一族島送りが討議された。この間、従来の葬儀や招魂を司っていたシャーマンや僧侶は弾圧され、ソウル所ばらいとなり、放逐されて山野を彷徨した。19世紀末に至るまで、朝鮮では僧侶は賤民扱いでソウルに入ることも許されなかった」「王と儒臣たちの儒教教化は、ヨーロッパ中世の異端審問と教理の実践を想起させるほど過激なものであった。」(『朝鮮民族を読み解く』)

 

 本場である「中国で漢王朝以来、政治権力を握った官吏によって信奉された儒教は、明白な不平等、したがってまた自由にふるまう大きな富の拒否、農業の振興、貨幣・信用制度・交易の国家管理を要素として含んでいた。(中略)1430年代以降、国家権力と市場経済(官吏と商人)の緊張にみちた協調と反発のなかで、地主と儒教的官吏からなる保守的な党派が勝者となった。商業と資本蓄積に対する消えることのない不信が優位を占めた」(ユルゲン・コッカ)のであるから、狭い半島国家で大陸を真似、しかも徹底すれば、商業の発展を抑圧することになった。また、文=学問を国家運営の基軸にすえる政策なのであるから、徐々に軍事力が衰退したのである。

 

 そして、「仏教が敗退し、武官が敗退した後は、儒教文官同士の党争である。殺し合いの政争は、国家整備が終わった15世紀末から開始された。士林や儒林と呼ばれた彼らは、初めは『東人』と『西人』に二分し、その後小分裂を繰り返し、王朝の滅亡まで党争を続けた。

 党争の本格化は16世紀後半以降である。分派を挙げれば、南人、北人、大北、小北、骨北、功西、清西、少西、老西、……。また、各派が信奉する名儒を祀る『書院』という儒学所が各地に建てられ、これを介した荘園が徐々に拡大していった。」(「朝鮮史」萬 遜樹)

 

 1592年、日本軍が大軍で侵攻してきた。任辰倭乱(ジンシンワラン)(注:文禄の役)である。加藤清正の軍は領土の最東北端まで侵入し、王朝存亡の危機に立たされた李氏朝鮮宗主国・明に援軍を要請した。その後、戦況は停滞し、和議の交渉が継続したが、1597年に日本軍はふたたび大軍を派遣して攻勢に出た。丁酉再乱(テイユウサイラン)(注:慶長の役)である。日本軍は、翌年8月の豊臣秀吉の病死を機に撤退を開始した。

 

 日本軍の朝鮮侵攻に対応した明の軍事力が弱体化した隙に、今の中国東北地方にあたる地域にいた女真族の中の愛新覚羅氏出身の「ヌルハチは、1616年、『金国』の再興を宣言し明から独立した。これを後金という。1619年にヌルハチはサルフの戦いで明の大軍を撃破し、勝利に乗じて地域の中心である瀋陽を占領してここに遷都した。・・・ヌルハチの息子ホンタイジは、1627年、・・・朝鮮に遠征軍を派遣し屈服させた。これを朝鮮では丁卯胡乱(テイボウコラン)と呼ぶ。朝鮮にとって女真人は胡(野蛮人)だという意識である。この時は後金を兄とし朝鮮を弟とする盟約を結び、親明政策を破棄し、王族を人質として差し出すことなどを条件として後金軍は撤退した。・・・1636年、ホンタイジは国号を『清』と改め、満州族・漢族・蒙古族に君臨する皇帝を名乗り、朝鮮に臣従するよう要求してきた。朝鮮がこれを黙殺するやホンタイジは10万の軍を率いて朝鮮に攻め込み、漢城の南にある南漢城山城に籠城した朝鮮国王仁祖を捕らえて服属を誓わせた。1637年、仁祖は漢城南郊を流れる漢江の渡し場三田渡で臣従を誓う三跪九叩頭の礼によってホンタイジに許しを乞うた。三田渡には、朝鮮の手によって、『大清皇帝功徳碑』が建てられ、ホンタイジの徳を称えて服従することを誓わせられた。これを朝鮮では丙子胡乱(ヘイシコラン)と言う。服従の条件として提示されたのは、明皇帝の冊封を破棄すること、国王の長子と次子や大臣の子を人質として差し出すこと、明に遠征する際には援軍を出すこと、毎年黄金100両・白銀1000両など大枚の朝貢を送ることなど、朝鮮にとって過酷なものだったがすべて承諾せざるを得なかった。清皇帝に対しては朝貢などの名目で使節を送り、朝鮮国王は清皇帝の冊封を受けてその臣下というかたちをとることになった。この関係は1895年、日清戦争終結のために日本と清との間で締結された下関条約で、朝鮮は『自主独立』の国であると定められるまで、続けられた。」(『韓国朝鮮の歴史』)

 

 まさしく、「朝鮮が中国の忠実な臣民であり続けてきたことは間違いない事実であり、『誰にも支配されない誇り高く優秀な民族』は完全な虚構であるのは言うまでもない。・・・15世紀に独自文字であるハングルが発明された時も、両班(特権階級)はこぞって使用に反対している。『自分たちには漢字がある、独自の文字を持つのは未開人だけだ』というのがその主張だった。」

 「韓国の国旗である大極旗は中国の易経がもとだし、『金日成』『金大中』のような人名も漢姓に基づいている。どう否定しようが、事大の伝統はそれほど深く半島文化に根付いており、精神構造そのものともいえる。」(『立ち直れない韓国』)

断章70

 「日本人は高麗に関してほとんど知らない」「一般的に、日本で朝鮮に関する議論や知識といえば極端なまでに近年100年間、つまり韓国併合以降に偏(カタヨ)っている。・・・(しかし)歴史年表をひもとけば分かるが、高麗は過去1000年間の朝鮮の歴史のほぼ半分を占める。」 「現代の朝鮮に李朝の影響が強いのはもちろんだが、その根源は高麗にある。」

 「信じがたいかもしれないが、21世紀の朝鮮を理解するには、朝鮮の歴史をタイムトラベルし1000年前に戻り、かつての高麗と李朝の人々の言動をつぶさに観察して彼らの行動の根源にある価値観と倫理観を正しくつかむことだ。」「そうすることによって初めて現代の南北朝鮮(韓国・北朝鮮)の状況を正しく解釈することが可能になると私は考えている。」(『本当に悲惨な朝鮮史』 麻生川 静男)

 

 「高麗の実態は現在の韓国の教科書や朝鮮の通史に描かれているレベルを遙かに超えた、言語を絶する悲惨なものであった。それについて、正しい情報を与えようとしない歴史書は『不作為の過失』というより、『虚偽記載』というべきであろうと私は考える。このような情報歪曲は、日本人だけでなく韓国人にとっても悲劇だと思う。つまり、『高麗史』『高麗史節要』ともウェブで全文が公開されているのであるから、遅かれ早かれ高麗の実態が明らかになってくるのは避けることができない。そうなると、いままでひた隠しにしていた高麗の恥部が明らかになり、従来の出版物の記述の信憑性が疑われることになるだろう。(中略)

 皆で口裏を合わせて、高麗社会にあったおぞましい現実は一切なかったことにしようと画策しているのではないか、と勘ぐりたくもなる。」(同書)

 「高麗史節要の至る所に悖乱(ハイラン)、欺瞞、強奪、虐殺、寇掠の数々が嫌というほど書かれている。よくぞ、こんな世界に暮らしていたものだ、と他人事ながら憐憫(レンビン)にたえない。」(同書)

 

 実質的には1221年に始まったモンゴルの侵入、1260年以降のモンゴルによる実質的統治で、高麗は筆舌に尽くしがたい悲惨な目にあわされた。例えば、1231年の講和で、モンゴルは「莫大な戦利品を奪っていった。その一部を挙げると、馬2万頭、紫蘭1万匹、テンの皮1万枚、黄金70斤、銀1300斤、など。これらの金品の他に数千人の少年少女(童男女、数千人)を連れ去った。」

 「『高麗史』『高麗史節要』の両方に1333年7月から1335年4月までの記録が全く見当たらない。(引用者注:著者の推測では、)1335年(27代忠粛王)のときに、高麗から元の朝廷に使節を出して、童女を探す――つまり、強制的な人さらい――のを止めてくれと嘆願したとの記事が見える。(中略)つまり、記事内容があまりにも惨め過ぎて、李朝の史官たちが書き写すに忍びなかったので、ばっさり削除したのではないかと想像される」。(『本当に悲惨な朝鮮史』)

 “従軍慰安婦”問題とは、当時の貢女や童女さらいになぞらえて、あたかも「江戸のカタキを長崎で討つ」ごとく、“モンゴルの恨みを日本で晴らす”プロパガンダなのではないだろうか。

 

 「1271年初頭に元宗は、モンゴルの皇女(フビライの娘)を自分の息子の嫁に欲しいと願い出た(請婚)。10月には使者がモンゴルから戻り、フビライの許可が下りたことを知らせる。世子(後の忠烈王)がモンゴルから戻ってきたが、すっかりモンゴル風の服装と髪型(弁髪)になっていた。」(同書)

 以後、31代恭愍王に至るまで、歴代の国王は元王室の王女と結婚した。

 「モンゴルはこれまでの契丹女真と異なり、直接的な内政干渉をした。国内には多くのモンゴル軍人が駐留し、反発感情が生まれた。(中略)一方、『高麗史』には忠烈王がモンゴルに日本侵攻を働きかけたとの記述がある。忠烈王が自身の政治基盤強化のため、モンゴル軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる。」(Wiki

 「また胡服弁髪の令(1278年)を出したほか、一切の律令制定と発布はモンゴルの権限とされた。以降の王はモンゴルの宮廷で育ち、忠宣王は『益知礼普花』(イジリブカ)、忠粛王は『阿剌訥失里』(アラトトシリ)、忠恵王は『普塔失里』(ブダシリ)と、モンゴル風の名も持っていた。このような中で高麗貴族の間ではモンゴル文化が流行した。」(同)

 だが、韓国の『検定版 高等学校韓国史』には、あっさり「モンゴルと活発に文化を交流する」とあるだけである。(笑い)

 

 「宦官とは、男性の機能を失くした男なので、誰も好んでなろうとはしないであろう。しかし、元の支配下にあった高麗では、元の宮廷からの要求に応えて数多くの宦官を元に送り出していた。その中にはかなりの大官にまで出世する人もいた。(中略)もともと卑賎の身分であった者が宦官となり元で出世したあと、本国に高級官僚として戻ってくると、高麗王をもしのぐ強大な権力をふるった。高麗の貧民はその様子を見て、万一の僥倖を恃んで自分の子供や弟を無理やり去勢し、宦官にした。それだけでなく、自ら進んで宦官になる者もいたほどだ。このような宦官の多くは元の国力や元の皇帝の力をバックにして、横暴にふるまい、高麗の人々を一層苦しめた。」(『本当に悲惨な朝鮮史』)

 

 高麗も末期になると、まさに末世である。『高麗史節要 巻33』によれば、「廉興邦の母方の従兄である李成林が侍中になった。ワルどもが徒党を組み、朝廷の要職を独占した。朝廷がことごとく李成林一派の私有物になったので、自分たちの都合のよいような政治を行い、官職や爵位を売ってぼろ儲けした。他人の持ち物の田畑・山林・広野だけでなく、奴婢までも勝手に奪い取った。その上、何百人、時には何千人もの徒党を組んで、王室の所有であろうと、個人の所有であろうとお構いなしにすべて取り上げた。それで、脱走した奴婢や逃散した農民などが官憲の追手から逃れるため集まってきた。知事や官吏たちもその横暴に全く対抗できなかった。民が逃げてしまったので、政府も地主たちも収入が途絶えてしまった。」(『本当に悲惨な朝鮮史』)

 

 そして、相変わらずの支配勢力内での「党争」である。

 韓国ジョークに「韓国人が3人寄ると7つの派閥ができる」があるそうだが、それだけではない。勝った方が、負けた方を完全に否定する血みどろの闘いなのである。「『高麗史節要 巻33』 誅殺した者たちの男の子孫は、ゆりかごの赤ん坊まで含めてみな川に放り込んで殺した。追及を免れた者はほとんどいなかった。また彼らの妻や娘たち、30人は官婢の身分に落とした。」(同書)

 

 「現代の韓国社会全体に巣くう不平等感、他人不信感は(少なくとも)高麗の時代から連綿と続く伝統で、持つ者が持たざる者を陰に陽に虐げる結果に他ならないといえる。ミクロ的には、ナッツリターン事件はその典型だし、マクロ的には10大財閥が韓国の企業活動全体の7割を占め、その圧倒的な支配力を背景にして、下請けの利益圧迫を図っている構図がある。」(同書)

断章69

 新羅はやがて衰退に向かい、900年には後百済が、901年には後高句麗が建国して、後三国時代と称されるようになるが、936年には王建(ワンゴン・高麗太祖)による後三国の統一に至る。この高麗は次第に北方に勢力を拡大し、はじめて朝鮮半島のほぼ全域を支配するようになった。この王朝は34代、約500年にわたって存続する。

 

 「高麗が国家を建設する時、唐・宋の官僚制度を参考にしながら、文臣(文班)と武臣(武班)の2つの班からなる官僚制度を採用した。2の事を両と言う字でも表すためこの2つの班を会わせて両班(ヤンバン)と呼んだ。・・・文班は、958年から科挙制度を採用し、科挙の合格者を官吏として登用する制度を取った。しかし、五品以上の上級文臣の子は自動的に官吏になれる『蔭叙』が行われ、当初から上級官僚の貴族化を促していた。」(Wiki

 「科挙の根幹をなしたのが、学問であり、なかんずく儒学を中心とした中国古典学である。政府(王朝)は、開京に国子監を開設して最高学府とし、儒学を正統的な学問・思想とした。」

 「高麗時代に作成された古代三国の正史『三国史記』(1145年完成)には、『城主』、『将軍』などという名称で多くの地方豪族たちが姿を現す。新羅盛期に『村主』として地域支配していた人々などが、王朝衰退期に軍事勢力として台頭してきた・・・高麗王朝成立に荷担した者も多かった。・・・安東権氏一族の始祖・権幸(クォンヘン)は、高麗王朝に対する功績から国王より権という姓、安東という本貫(ホンガン)の賜与を受けた。・・・住民たちの基礎的な地域単位である『邑』(ユウ)を基盤とする多くの豪族たちは、王朝から本拠地を本貫として認められ、また中国風の姓を名乗ることを許された。邑はさまざまな制度的改変をこうむったものの、他邑に吸収されたり、離合集散したとしても、高麗初期に本貫と定められたものの多くは現代にまで続いている。」(『韓国朝鮮の歴史』放送大学刊)

 「太祖王建は10ヵ条の遺訓を残したが、その8番目に風水説に基づき、現在の全羅道地域は地形が『背逆』の相にあり人民の心もまたそうだから、そこからは人材を登用してはならない」とあった。これは、高麗統一時に、後百済が最後まで抵抗した記憶もあったことだろう。ともあれ、旧百済人末裔たちは以後、地域差別を受け続け、中央官職から排除された。朝鮮史を貫く農民暴動も、実はこの全羅道地域を中心に起こることが多く、また最も強盛であった。その『伝統』は、日清戦争につながった東学農民戦争までに至る。

 それは、当地出身の金大中氏が大統領に就任するまで続いたと言ってもよい。この地域間の感情対立は、選挙時の各候補者への支持地域を見れば一目瞭然である。なお、全羅道差別とは別に、東北部の咸鏡道への地域差別もあった。両地域への差別は李朝にこそ本格化する。」(「朝鮮史」萬 遜樹)

 

 王朝成立から2世紀。門閥貴族間の内紛が続いた。『検定版 高等学校韓国史』の「2.支配勢力の交替」には、「特定の一族が権力を独占する現象に対する反省の機運も起こった。このような民心を利用して西京出身の鄭知常や妙清らは西京遷都を積極的に押しすすめ、西京に大花宮をつくって皇帝と称し金国を討伐しようと主張した。一方金富軾が中心になった開京勢力は、西京遷都と金国征伐に反対した」とある。

 門閥貴族間の内紛の文脈で語られた反乱にもかかわらず、本項のまとめでは、「丹斎申采浩が妙清の西京遷都運動を評価した文章を読んで“探求活動”をしてみよう」と言って、また申采浩の文章が出てくる。

 「妙清の遷都運動は・・・郎家および仏教対儒教の戦いであり、国風派対漢学派の戦いであり、独立党対事大党の戦いであり、進取思想対保守思想の戦いでもあったが、妙清は前者の代表で金富軾は後者の代表だった。妙清の遷都運動で妙清らが敗れ金富軾が勝ったことで、朝鮮史が事大的・保守的・束縛的思想の儒教思想に征服されてしまった。もし金富軾が敗れ妙清が勝ったならば朝鮮史は独立的・進取的に進展したのだから、これがどうして一千年来第一の事件と言わずにいられようか。」

 新羅のときと同様に唐突にまた申采浩の文章が出てきたのは、妙清たちが、「高麗の国王号は皇帝に改め(称帝)、独自の年号を建てれば(建元)、高麗は天下を統一し、周辺諸国を臣属させ、金国すら隷属できると主張した。西京遷都派は妙清を盟主として陰陽風水思想を信奉し、国際自立の政治主張を掲げて結集した」(『朝鮮史山川出版社刊)からというので、新羅のときと同様に“外勢”批判(国際自立の政治主張)に誘導したいからではないだろうか。

 

 だが、「文化が花開き、世界に開かれていた高麗」(『検定版 高等学校韓国史』)との自賛にもかかわらず、高麗建国後には「(中国)五代の各国から『高麗国王』の冊封を受け、宋が建国されると、963年にはその冊封を受けた。その一方で、993年に契丹の大軍が侵入してくると、翌年、宋との外交関係を断絶して契丹朝貢することにし、996年には国王が契丹皇帝の冊封を受けることにした。・・・高麗が支配から離脱する動きをみせると、契丹(遼)はふたたび1010年から翌年にかけて大軍を侵入させ、首都開京を破壊しつくして屈服させ、高麗国王が契丹皇帝に朝貢することを約させた。」(『韓国朝鮮の歴史』)また、「高麗は遼の崩壊と宋の南遷をみきわめて、1128年、金の冊封を受けて臣属し、金の『冊封体制』に参入した。」(『朝鮮史』)のが、現実である。

 

 『検定版 高等学校韓国史』は、外国に対する新羅・高麗の朝貢・臣属・『冊封体制』という現実からできるだけ目をそむけようとしている。教科書の著者たちが官製民族主義者だから、一貫して独立を保った朝鮮民族ということにしたいのである。

 

 「ある者はこの世の明るい面だけを見ようとして片方の目を閉じたまま人生を送っていくかもしれないが、そんな人たちの抱く人生の理解は明るく美しいものであっても、けっして正しいものではありえない」(アーソン・グレブスト)

 歴史もまた同じである。

断章68

 「韓国の日本に対するエキセントリックな感情や挑発は、日本の一部の知識人と称する者たちを含め、日韓併合という歴史的事件を錦旗に掲げて正当化されがちである。しかし、それは単なるごまかしに過ぎない。韓国が国際世論の常識をはるかに踏み越えた姿勢を取る理由は、日本とはまったく異なる朝鮮の歴史から形づくられた、日本人には理解しがたい独自の価値観にある。」(『韓国人に不都合な半島の歴史』)

 韓国独自の“価値観”(そのメンタリティとビヘイビア。精神構造と行動様式)を知るためには、“檀君王倹”に始まるという韓国(朝鮮)2000年の歴史をひもとく必要がある。

 

 韓国歴史ドラマには、「三韓統一」に関係するものがある(『善徳女王』など)。

 『検定版 高等学校韓国史』では、「中国を統一した隋や唐は勢力拡大を図り、高句麗を攻撃した。高句麗が隋・唐の侵略を食い止める間、百済新羅をしばしば攻撃した。新羅高句麗と同盟を試みたが失敗し、その後唐と連合軍を結成して百済を攻撃した。政治秩序の乱れと支配層の享楽によって国家的一体感を失っていた百済は、結局洒沘城が陥落すると滅亡してしまった。新羅と唐は引き続き高句麗を攻撃した。高句麗は度重なる戦争で国力を激しく消耗し、淵蓋蘇文が死んだ後、支配層の間に権力争奪戦が起こり新羅と唐の連合軍を食い止められなかった。結局平壌城が陥落して、高句麗は滅亡した。・・・(その後)新羅は唐の勢力を追い出して三国統一を成し遂げた。」

 普通なら、ここでさしあたりメデタシメデタシのはずだが、『検定版 高等学校韓国史』には、まったく唐突に、「申采浩(シン・チェホン)が三国統一について書いた文章がある。これについて“探求活動”をしてみよう」と出てくる。

 それは、「他の一族を引き入れて同じ一族を滅亡させるのは、盗賊を呼び入れて兄弟を殺すのと同じだ。これは幼い子どもでもわかることだ。悲しい!わが国の歴史家よ!これを理解する者が大変少ない。前にも話したように、新羅の歴代王が常に外勢の助けを得て高句麗百済を滅亡させようとしたが、心はあってもことを起せず、ことを起しても成し遂げられなかったのだから、これは殺人未遂に匹敵することだ。太宗大王・金春秋がこのことのために心と力を尽くし、手腕を尽くしてついにこれを成し遂げた後には得意満面だった。半分ほどでも血の気を持った者ならばこれを罵り叱るのが正しく、排斥するのが正しいのに、今日その本末を問い詰めもせず、ただ『わが国統一の糸口をつかんだ王だ』という。彼がわが国だけでなく支那(中国)も日本も統一し、その他東西の多くの国々をもれなく統一したとしても、その功でその罪を覆うことはできないのに、まして三国統一した功でその罪を覆うことなどできまい」という文章である。

 (唐突にこの文章が出てきたのは、「故・李承晩と故・金日成は、米国とソ連韓半島朝鮮半島)を分割統治するために連れてきたカイライ(操り人形)だ」という既出の“外勢”批判に“誘導”するためではないだろうか。)

 

 その新羅であるが、「新羅は唐の勢力を追い出し」(前出)と威張れるような国ではなかった。

 なにしろ、金春秋が唐の援助をあおいだ後は、新羅固有の制度・年号を改めて、「唐の元号を用いるかたわら、名前や、服装を唐風に改めた。韓人の姓は三国時代までは二字姓だったが、創氏改名が強いられ、一字姓となった」し、新羅は自らを「大唐国新羅郡」とへりくだったような“事大”なのである。

 

 新羅の外交活動は、「唐との対立期には対日外交が重視され、日本へはほぼ毎年、使節が派遣され、時には年、複数回に及ぶこともあった。だが、7世紀後半、唐の新羅に対する軍事的脅威がなくなり、新羅・唐関係が改善されると、新羅にとって最重要外交相手国は唐となった。それにともなって、新羅の対日外交の意義は相対的に低下した。そのため、新羅はこれまでの低姿勢外交から対等関係での対日外交に臨むようになり、日本との間で軋轢が生じ、両国の関係は悪化の一途をたどった。」(『韓国朝鮮の歴史』)

 デジャヴーである。

 韓国は、冷戦期には彼らなりに「反日」を管理(抑制)していたが、グローバル経済時代に中国が貿易相手国1位になると、ここぞとばかり「反日」を全開している。

断章67

 世界から「硝煙の臭い」が絶えたことはない。

 「米国とソ連は冷戦期を通じて直接戦火を交えることを互いに思い止まる一方、その敵意は同盟国、属国、代理国家による戦争にはけ口を求めた。それゆえ前例のない大国間の平和の裏で、小国間の絶え間ない熾烈な戦争があり、1948~91年の冷戦期の間に144回もあった」(『戦略論』)のだ。

 北海道のすぐ隣にいる熊さんは、強気である。

 「ロシアは、これまで『強い国家』や『影響力ある大国』を掲げ、同国の復活を追求してきたプーチン大統領が2018(平成30)年3月に再選され、軍の即応態勢の強化や新型装備の開発・導入を推進すると同時に、核戦力を引き続き重視していくものと考えられる。

 歳出の削減が幅広く行われる中においても国防費の確保に努め、軍の近代化を継続しているほか、最近では、アジア太平洋地域のみならず、北極圏、欧州、米国周辺、中東などにおいても軍の活動を活発化させ、その活動領域を拡大する傾向がみられる。 具体的には、欧米などから、ロシアは、自らの勢力圏とみなすウクライナにおいていわゆる『ハイブリッド戦2』を展開して、力を背景とした現状変更を行ったとみられており、欧州諸国が強く懸念するのみならず、アジアを含めた国際社会全体に影響を及ぼし得るグローバルな問題と認識されている。また、ロシアは、シリアのアサド政権を擁護するかたちでシリア内戦への介入を行うなど、国際的影響力拡大を企図した動きをみせている。

 極東においては、新型のフリゲート(ステレグシチー級)や戦闘機(Su-35・Su-34)などの配備が進められ、18(平成 30)年は大規模演習「ヴォストーク2018」も実施予定。

 また、北方領土択捉島国後島)への地対艦ミサイル配備を公表したほか、択捉島の民間空港の軍民共用化や同島への戦闘機の展開を行うなどその活動を活発化。ロシアはわが国周辺を含め軍事活動を活発化させる傾向がみられ、その動向を注視していく必要がある。」(2018/9 防衛白書平成30年版ロシア項目から要約)

 

 「ロシアが米国に対抗する核戦力の拠点とするオホーツク海への敵艦隊侵入を阻むため、北方領土と千島列島で進める2019年の軍備計画の概要が2日、判明した。千島列島で二つの島への新型地対艦ミサイル『バスチオン』(射程300キロ以上)配備を明記しており、極東カムチャツカ半島から北海道に至る『防衛線』を射程に収める計画が近く完成する。」(2019/9/2 共同通信

 「ロシアのプーチン政権が極東地域への中距離ミサイル配備に乗り出す構えをみせている。米ロの中距離核戦力(INF)廃棄条約の失効を受け、米国が中距離ミサイルのアジア配備に言及したことへの対抗や、日本が米国から導入する地上配備型迎撃システム『イージス・アショア』への警戒が背景にある。中距離ミサイル戦力で優位に立つ中国を巻き込んだ駆け引きが活発化しそうだ。

 プーチン大統領は8月5日の声明で、米国が新たな中距離ミサイルを開発した場合は『ロシアも同様のミサイルの本格的な開発に着手せざるを得ない』と警告した。これに先立ち、リャプコフ外務次官は米国がアジアに中距離ミサイルを配備すれば『脅威に対抗するための措置をとる』と説明した。

 リャプコフ氏は日本のイージス・アショアについて攻撃に転用可能と主張した。中距離ミサイルの配備場所については明言を避けたが、米国の同盟国で多数の米軍基地が立地する日本や韓国を射程に置く極東地域が有力視される。」(2019/8/6 日本経済新聞

 

 (平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した)「日本国民の多くが善意を持って世界を眺めているつもりでも、世界の現実を理解しようとする努力を怠れば、そのいうところは机上の空論にすぎなくなる。そのために、日本の周辺地域の安定や、日本国民自身の安全をも、きわめて危いものにしている事実を認識すべきである。」(崔 基鎬)

断章66

 庶民の暮らし向きは、相変わらずカツカツである。

 庶民から寄せられた家計の悩みに回答する「マネープランクリニック」には、以下のような家計相談が目白押しである。

「43歳貯金50万円。子どもの進学が迫っていますが、教育資金が足りない」

「39歳、夫に病気が見つかり、家族が共倒れになる前に相談させてください」

「37歳貯金0、夫がうつ病で無職。月23万円あれば…」

「36歳子ども2人。貯金ゼロで毎月7万円以上の借金返済」

「45歳貯金200万円。遺族年金と月収6万円で老後は?」

「50歳月収16万円、月1万円の貯金。妻は体が弱く働けない」

「34歳貯金1000万円。病気が再発しそうで正社員で働く自信がありません」

内容をみれば・・・「今回の相談者は、3人のお子さんを抱える32歳の主婦の方です。

Q:貯蓄がなかなかたまらない。老後資金は勿論、特別出費や家の維持費などに貯金が回せない。ボーナスはないし、退職金制度もないので将来が不安です。今年から固定資産税の支払いも始まるし、かといって、真ん中の子どもは幼稚園に通い、末っ子を他の託児所や保育園に通わせてパートに出るのは逆にマイナスかプラスマイナスゼロな気がして収入が増やせません。これから教育費もかかってくると思うと不安しかないです。」など悲鳴に近いものもある(ウツを発症して苦しんでいる例が多い)。

 「厚生労働省が9日発表した2019年5月の毎月勤労統計(速報、従業員5人以上の事業所)によると、基本給や残業代などを合わせた1人当たりの現金給与総額(名目賃金)は前年同月比0.2%減の27万5597円だった。物価の影響を加味した実質賃金は1.0%減で、名目、実質ともに5カ月連続のマイナスとなった。」(2019/7/9 共同通信

 少しはゆとりがあっても、「家計で必要な消費や経費を差し引いた後に残るお金の比率を示す『黒字率』が上昇している。総務省が8日発表した家計調査によると、2018年の家計黒字率(2人以上の勤労者世帯)は00年以降で初めて30%を超えた。働く女性が増えて家計収入を押し上げている一方、不要不急の消費を控えてお金をためている家計の動きを示す。」(2019/2/8 日本経済新聞

 生活防衛に汲々とせざるをえない現実があるのだ。

 

 「平成時代に入ってバブル経済が崩壊し、雇用形態は大きく変わり始めました。年々増えていったのが非正規です。政府によると非正規社員の数は約2100万と、いまや労働者全体の4割近くを占めます。(中略)

 非正規社員の特徴をまとめると短時間労働、有期契約、転勤がない、というのが一般的です。近年、企業は人件費を抑制するため、雇用調整のしやすい非正規社員を増やしました。子育てや親を介護するために短時間勤務を望む人が増えていることも背景にあります。

 非正規社員の増加は多くの問題を引き起こしています。

 まず賃金格差です。2018年の賃金構造基本統計調査によると正規社員の平均賃金は月32万3900円、非正規社員は20万9400円です。正規社員には労働時間が長い、転勤を伴う、といった理由があるとはいえ、それだけでは説明できない『不合理な格差が目立つ』と弁護士の上柳敏郎さんは指摘します。

 そこで政府は働き方改革関連法に基づき来年4月から正規、非正規の賃金の均等化、均衡化を図ります。これが同一労働同賃金の原則です。

 労働者災害補償保険雇用保険、健康保険、厚生年金保険の加入問題もあります。非正規社員の中には加入要件を満たすのに『会社が加入を怠っているケースも依然目立つ』と社会保険労務士井上大輔さんは話します。

 例えば雇用保険は『週労働時間が20時間以上』といった基準を満たす社員を被保険者として加入させる必要があるのに加入させないケースです。」(2019/8/24 日本経済新聞

 

 自ら積極的に食事・睡眠・健康管理に力を入れ、法律・支援制度のことも知り、視野を広げ新たなスキル・仕事・環境に挑戦しなければ、グローバル経済・AI自動化経済の時代を生き抜いていくことはできない。ストレスフルでもそれが現実なのだ。

 

 レオス・キャピタルワークスの藤野 英人は、こう言っている。

 「うつむく必要はない。日本では、この国の未来を悲観的に語る人が少なくありません。私には、多くの人がうつむいているように思えます。しかし日本はGDPの世界ランキング第3位の大国であり、その強さは簡単に崩れるものではありません。

 これほどのベースを持ち、安全で、美味しいご飯が食べられ、働く機会もたくさんあり、やる気があれば資金を提供してくれる人もいます。日本の中で挑戦心を持っている人は、『世界最強』と言ってもいいのではないかと思います。そんなにうつむく必要はないのです。

 日本がつまらない、息苦しいなどと感じるなら、アジアで挑戦するのもいいと思います。実際にVIP(ベトナムインドネシア・フィリピン)で頑張っている人は少なくありません。

 たとえばベトナムではいま、『ピザ フォーピース』というピザのお店が大人気。『平和のために』という名前のこのお店を経営しているのは、ベトナムに移住した日本人夫婦です。

 現地においしいチーズがないからとベトナムで自家製チーズまで作るこだわりようで、そのおいしさが評判を呼び、現地の人はもちろんベトナムに滞在する日本人や欧州の人々も魅了しています。同じくベトナムで大人気の『FUWAGORI(フワゴオリ)』という名前のかき氷店も経営者は日本人で、今後はアジアの国々への展開を視野に入れているといいます。

 うつむきがちになっている人や煮詰まっている人は、一度アジアの国々に出かけみてもいいかもしれません。のんびり観光でもしながら、自分を見つめてみるのです。そこには成長する国の姿があり、一方では日本の素晴らしさを改めて感じることにもなるでしょう。

 『日本にまだまだ自分が活躍できる場があるんだ』と気づくのか、それとも『アジアに出て働いてみよう』という気持ちになるのかは、みなさん次第です。」

 

 「自らの力を信じ、自ら決する者だけが、道を切り拓いてゆける。国も同じであることを、歴史は語っている。」(岡田 英弘)

 

【参考】

 「周囲の人とは違う(貧乏な)境遇で育ち、せつない思いもあったけれど、自分の得意な勉強に打ち込み、実績を作った。そして、何よりそれを成し遂げた自分を信じることが『自信』につながった。コンプレックスはそう簡単に拭い去れるものではないかもしれないが、乗り越えた自分の存在を信じて日々を過ごしている。」

(クイン・エマニュエル外国法事務弁護士事務所 東京オフィス代表 ライアン・ゴールドスティン)