断章533

 ヴィルフレド・パレートは、「経済学における一般均衡の概念を社会学に応用し、社会は性質の異なるエリート集団が交互に支配者として入れ替わる循環構造を持っているとする“エリートの周流”という概念を提起したことで知られている」(Wikipedia)。

 1975年に、この100ページほどの『エリートの周流』が、日本でも出版されている。あるアマゾンレビュワーは、「そもそもエリートという語を作り出したのも彼だ。エリートの支配は必然である。現在のエリートを批判する人々も、実は、現在、自分が権力を握っていないことに不満をくすぶらせている人々だったりする。そして、現在のエリートが倒されても、新しいエリートが支配する。

 現行エリートの批判者は、『弱者のため』なり『みんなのため』なりといった美辞麗句を用いて己の欲望を隠す。しかし、一度エリートの打倒に成功したら、貪欲なまでに牙をむき、前のエリートと変わらないことを行い始める。

 最初に言っていた、『弱者のため』だとか『みんなのため』だとかは、結局支持を増やすための口実に過ぎないことが明らかとなる。革命なども、古いエリートと新しいエリートとの闘争でしかない。

 古いエリートは、次第に求心力が衰え、また組織内の異物も大目に見ざるを得ないので、ゆるやかに力を失っていく。一方、新しいエリートは、目標が明確に存在し、異物を徹底的に排除できる(引用者注:“分派活動”を除名)ので、勢いを持っており強い。

 こうしてエリートの交代が繰り返されていくのだ。これが歴史の示すところであり、何らかの歴史の目的に一直線とか、正義が成されてとか、そういうのはまやかしである。

 エリートとエリート批判、権力と権力批判についてのこうした見方は、現在の世界や日本の状況にも当てはまるといえよう。権力であればあるほど内側にいる『造反者』という構造や、権力批判者ほど自分の意見にあわないものを『排除』して『純化』していこうとする傾向などは、現在の日本の状況もよく表している」と評している。

 

 不破 哲三は、同じ1975年に出版された『青年と語る ―― 科学的社会主義と日本の未来』において、ソ連の特権的赤色党官僚がゲタをはかせた“数字”を盲信して、「社会主義の道を進むことによって、ロシアがあの経済力の貧しい状態から出発して今日の世界第二の経済力を持った国に発展したように、日本が社会主義の道を進むなら今の資本主義のもとでの暮らしよりも、もっと豊かな社会主義が作られるであろうことは、明瞭であります」と安請け合いをした。

 しかし、1億を超す人口をもち資源・食糧の無い島国・日本が、社会主義になっていたら・・・、その結果は、ちょっとアタマを働かせればわかりそうなものだ(戦前の日本が、その事実の重みにあえいだことを思い出せ)。ソ連や中国への“物乞い国家”(昨今のキューバ的な)、あるいは「北朝鮮」のような“極貧共和国”になっただろう。

 

 ボリシェビキレーニンスターリン)は、「平和・土地・パン、労働者階級解放」という“看板”で民衆を動員し、権力を握るや、その仮面をかなぐり捨てて、新支配者として民衆に君臨した。「貪欲なまでに牙をむき、前のエリートと変わらないことを行い始め」たのだ。

 スターリン主義ボリシェビキ)は、赤色全体主義だったが、“タタールの軛(くびき)” ―― またはモンゴル=タタールの軛とは、13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻とそれにつづくモンゴル人によるルーシ支配を、ロシア側から表現した用語である。現在のロシア人などの祖先であるルーシ人の、2世紀半にわたるモンゴル=タタールへの臣従を意味するロシア史上の概念である ―― という、ロシア国民のトラウマをふり払うための国境の拡張や近代化(工業化)を実現することで、“支配の正統性”を確保した。

 

 ところが、日本共産党(不破 哲三)が提供できるものは、「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」(党綱領)を作るなどという、シンに空虚な言葉でしかない。

 すでに革命の“戦士共同体”という魅力もない。「党中央の頂点に近い常任幹部会委員になると年収で最低1,000万円以上が保証され、中央委員以上の医療費自己負担分は『党幹部の保全のため』との趣旨で党中央財政部が支払ってくれます」(篠原 常一郎)という党官僚制であり、党機関職員(常任)や党所属議員は上級機関だけをあおぎ見て自己保身に走る党なのである。