断章523
あまたの聡明で学識深い多くのインテリたち(あのマルクスも!)が、あえて語ろうとしない本質的な問題がある。それは、「人間もまた動物である」ということである。
「もし哲学者が人間を動物として考察することを最も恥ずべきことと考えないとしたら、彼にはもはやまったく何ものも把握することができなくなる」(マルクス)として、人間(ヒト)の普遍本質への考究を抽象的なもの(たとえば、“目的意識的実践”)に止めれば、大事なことを見逃すことになる。
たとえば、「外部との関係では縄張り(テリトリー)、内部では序列(地位)の決定は、どんな社会的動物でも、第一にするべきことである。というのは、地位がすべてを語るからだ。はたして誰が最初に食卓につくか。誰が注目され、誰が無視されるか。誰がつつき、誰がつつかれるか。すべては地位を獲得するという一つのことによって決定されるのである」(大事なことはコクマルガラスが教えてくれた)という知見である。
こうした知見を踏まえれば、マルクスの秘密の“私生児”問題や、共産党の幹部たち(レーニンも!)が権力を握るとすぐに権力の甘い蜜を吸い始めることや、処刑されたチャウシェスク(ルーマニア共産党書記長)のようにゴージャス贅沢生活にふけったり、あるいは、「誠実で真面目」を売り物にする日本共産党幹部が“パワハラ”をしてしまうことも納得がいくのである。
日本共産党の現在の“党首公選”を巡る「コップ のなかの嵐(あらし)」もまた、党中央ならびに党機関職員(専従・アパラーチキ)が現在の序列(地位)を守ろうとする衝動・感情・情念の大きさを示している。
「人間もまた動物である」。人間(ヒト)の衝動・感情・情念を直視しなかったマルクスは、『資本論』を書くことはできたが、権力論(地位がすべてを語る)を書くことはできなかった。だから、マルクス(理論)に基づく「革命」はすべて大失敗(転落)する。
にもかかわらず、マルクス(理論)の欠陥を理解できない共産主義者たちは、マルクス“信奉”をつづけ、ついには「マルクス主義は真理であるがゆえに全能である」(レーニン)という言葉に象徴される“マルクス真理教”の信徒になる。
やがて、彼らの言うこと、なすことの諸々は、神官・司祭とそっくりになる。
「お前たち、下々の一般の党員たちは、ただひたすら指導者と私たち党中央の前に跪(ひざまず)き、不破 哲三著作集を読み、党文献を学習していさえすればよい。それ以外の余計なことをするな。指導者と党中央の前に、跪いて、私たちに従いなさい。それ以外のことをお前たちはしてはならない
私たちに対して疑念を抱くな。このことで議論をするな。私たちに論争を吹きかけるな。お前たち生来頭の悪いものは、どうせ何も考えないのだから、私たちの言うことを聞け。素直に従え。流麗高雅な(共産党は“無謬”という)論文を編み出すことのできる私たちに、すすんで騙(だま)されて信従せよ」(『経済学という人類を不幸にした学問』から援用)。
これが、“党首公選”に対してヒートアップしている日本共産党(中央)の本音である。