断章524

 「『資本論』という本の何がすごいかというと、19世紀後半に書かれた本ですが、社会の仕組みの全体像、社会の全体がこうなっているという本なんですよ。いや、『資本論』は、世界そのものを読み解く作業だと言ってもよいほどの包括性をもっている。これを読むと、僕らは、近代社会の全体や近代的な世界の全体を相対化してしまうような、精神の自由を実感できるんですね。つまり、読むこと自体が、人の精神を解放し、自由にする。すると、そこに書かれていること以上の、あるプラスアルファの感覚が生ずる。ここで説明されている近代的な社会や世界の外へと脱出できるはずではないか、という外への希望が、そのプラスアルファの感覚です」。

 

 マルクスをこのように語るインテリに会ったなら、「『近代的な社会や世界の外へと脱出できるはずではないか、という外への希望』? ふ、ふ、ふ、おとぎ話だね」と笑ってやりなさい。

 こんな甘ちゃんたちを見ると、「知識人という人種は、現実の生活や労働も知らずに象牙の塔に籠って役にも立たない思弁をいじくり回し、自分を特別な存在だと思いたがるうぬぼれ屋であり、無視されるぐらいなら迫害されたいと思っているような鼻もちならない存在。苦労知らずの空理空論の気取り屋」(エリック・ホッファー)と言うくらいでは気がおさまらない。

 ブルジョワジーや地主の「無慈悲な根絶が必要だ」。「強制なしに、独裁なしに、資本主義から社会主義へ移行できると考えるのは愚の骨頂であり、最も馬鹿げたユートピア思想であろう。……時が必要であり、鉄の手が必要なのである」と言うレーニン(注:最近は日本共産党からも冷たくされています)の方が、率直で自分の手を汚す分、よほどマシだと極論したくなる。

 

 マルクスは、プロレタリア革命のための“武器”として『資本論』を書いた。だから、それを読むことは、当然、プロレタリア革命に役立てるためであり、おのれがプロレタリア革命のために〈献身する〉ことと固く結びついている。

 政治活動と無関係に『資本論』を読むことは、ぶっちゃけ、「大学知識人」の知的なマルクス遊戯である。あるいは、「評論家って、とりあえず“資本主義”と“日本”の悪口を書けばカネになるんだから楽な商売だよなぁ」(出所不詳)ということだ。

 

 「共産主義が20世紀の歴史にこれほど大きな位置を占めてきたのは(マルクスの)教義の極度の単純化が時代に合っていたからだといえよう。あらゆる悪の根源が私有財産制度にあるとした共産主義は、財産を共有することで真に公正な社会が、したがって人間性の完成が達成できると仮定した」(ズビグネフ・ブレジンスキー、以下同じ)。

 「インテリにとって贖罪のための革命を推進する政治活動や合理的な計画によって公正な社会を実現しようとする国家統制は魅力的であった」。

 「共産主義は理性の力を信じ、完全な社会を建設しようとした。高いモラルによって動かされる社会を作るために、人間へのもっとも大きな愛と、抑圧への怒りを結集したのである。それによって最高の頭脳、最良の理想主義的精神を持った人々の心をとらえた。にもかかわらず、共産主義は、今世紀はもちろん他の世紀にも類を見ないほどの害悪を生んだ」(Wikipediaを再構成)。