断章242

 1976年、イスラエルのハイファに生まれたユヴァル・ノア・ハラリは、ティーンエイジャーだった頃のことを、「私は、絶えず悶々としていた。世の中というものが少しも理解できず、人生について抱いていた大きな疑問の数々に、答えがまったく見出せなかった。とくに、この世界や私自身の人生にはどうしてこれほど多くの苦しみがあるのか、そして、それについて何ができるのか、わからなかった」と回顧している。彼が上梓した『サピエンス全史』『ホモ・デウス』『21 Lessons』は、そんな彼の探求の中間報告なのだろうか。

 

 まことに老いの繰り言めくが、いたずらに歳を重ねただけのわたしは、今日に至るもなお、おのれの思想と人生の根底に据えるべき《方法》《原理》さえ定まらず、働きの悪くなっていくアタマとカラダに戸惑う日々である。

 わたしがティーンエイジャーだった頃に、「人生には限りがある。だから、他人の人生を生きることで自分の人生を無駄にしてはいけない。他人が考えたことの結果に盲従することをドグマと言うが、ドグマにとらわれてはならない。他人の意見に、自分の内なる声がかき消されることがあってはならない。そして最も大切なことは、自分の心と直観に従う勇気を持つことだ。あなたの心は、あなたが本当は何になりたいのか、なぜだか分からないがすでに知っている。それ以外のことはすべて二次的なのだ」(スティーブ・ジョブズ、訳・成田あゆみ)といった“言葉”に出会い、よ~く考えて行動していたら良かったのだろうか。

 つらつら反省するに、「学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」といさめるべき学習であった気がするのである。しかし、「成功哲学」も「自己啓発」もポピュラーでなく、まわりの大人たちも「手から口」の生活に追われていた時代的な制約が大きかったのではないだろうか、とも思うのである。

 

 若くて、貧しくて、無名だった。

 「心では救いを求めて泣き叫びたいようなおもいをしながら、それを隠してまじめに世渡りをしている人たち。そういう人たちの汗や涙の上で、自分だけの欲やたのしみに溺れている」連中とは戦わなければならない、と真剣に(単純に?)思っていた。

 大人になって、知った。

 「利己主義と野心は、絶え間なく実践されてきた。自分が弱者の立場にいるときは、人々の平等のために尽くす気持ちは変わらないなどと言い切る人でさえ、運よく、あるいは努力の末に特権階級に登りつめたとたんに、これまでさんざん批判してきた悪徳に染まっていく。それは歴史が証明している」(ミロバン・ジラス)。

 この法則(?)が貫徹するのは、個人だけではない。国家も政党もである。