断章243

 マルクス主義の《ドグマ》に囚われている「左翼」学者たちは、「社会主義国家」という“用語”を躊躇なく使用する。ところが、虚心坦懐にマルクスの著作を読む限り、「社会主義国家」というようなものは、ありえようがないのである。

 

 マルクスは、資本制的生産様式が全世界・全社会をもれなく制覇して、表面の目も眩むような富の蓄積と裏面に貧窮する無産の労働者が堆積するだけでなく、“世界的社会主義革命”によって、民族(国民)国家間における労働力水準の均一化、言語の単一化、各国労働者の生活水準の平均化を基礎とした民族的差別感情の一掃が解決された後に、社会主義共産主義が可能になると想定していた。だから、「社会主義国家」とは、マルクスを虚心坦懐に読めないマルクス主義者の《ドグマ》なのである。

 

 さて、マルクスの右のアキレス腱が“空想的な”「共産主義社会」論であるとすれば、左のアキレス腱は「国家論」である。

 国家論だけでいえば、「国家は不完全で色々な問題がある、しかし、国家は必要である。なぜなら、現に我々は国家を必要としており、見通せる未来には国家が存在しない世界はありえないからである。

 もちろん、国家を肯定するということは、政府に闇雲に従うということではない。ただ、国家を敵視、否定することと、政府を批判することの間には、天地雲泥の差がある」という坂本 多加雄の素朴な(?)論考の方が、むしろ優位に立っているのである。