断章536

 マルクスの理論は、「近代市民社会を解剖して、(その経済システムである)資本制生産様式の構造・機能・終焉を明らかにした」というものであった。この資本制生産様式という経済システムは、それ以前と比較して、たとえるなら、漕ぎ船を動かす人力や木造帆船を動かす風力と異なり、鉄船を動かすことができる(パワーに満ちた)エンジンである。

 資本制生産様式〈資本主義〉が呼び出した巨大な生産力により、「20世紀は、医学、栄養学、近代的な通信手段など、人間生活の物質的な側面に直接関係する分野で、かつてないほど飛躍的に科学が進歩した時代である。伝染病、幼児の死亡率、さまざまな疾病の罹患率は劇的に減少し、世界の多くの地域で平均寿命が30%から50%も伸びた」(ズビグネフ・ブレジンスキー)。

 とはいえ、19世紀当時も、経済発展や人口増加は各国間でまちまち(不均等)だった。

 1870年から1910年にかけてのイギリスの人口は、約3,100万人から約4,400万人へと増加した。同時期のフランスの人口は、約3,800万人から約4,300万人に増加。一方、同時期のドイツの人口は、約4,100万人から約6,500万人へと増加した。

 

 ドイツ社会民主党SPD)は、創設当初からマルクスの影響を受けていた。初期の指導者の多くは、マルクスの理論を学び、SPDは、マルクスの理論に基づく社会主義政党として発展した。

 「ドイツ社会民主党の党員数は1906年6月30日の時点で38万4327人だったが、1907年7月31日には53万466人、1910年6月30日には72万38人、1912年6月30日に97万0112人、そして1914年3月31日には108万5905人に達した。社民党と密接な関係を持っていた自由労働組合も1913年には組合員250万人を突破している。自由労働組合社民党の支持母体の中でも随一の存在だった。

 1912年の帝国議会選挙でSPD社民党は得票率34.8%を獲得して得票の上でも議席の上でも第1党となった。……無数の社会団体やスポーツクラブ、新聞などを保有して文化面での活動も広げていった」(Wikipedia)。

 

 けれども、この急速な党勢拡大と引き換えに、SPDでは、理論と実践の劣化 ―― マルクスの理論は“通俗化”(たとえば窮乏化法則のごとく)され、実践は目先の日常活動への“埋没”(選挙活動・集票のために) ―― が進んでいた。

 エンゲルスは、すでに「1891年のエルフルト綱領の草案を読んだ時点で、『党は社会主義者鎮圧法復活への恐怖から日和見主義に走っている』とし、党に蔓延する社会改良主義を牽制した。ドイツにおいて合法的に掲げることは難しいことは認めつつも、労働者階級が支配権を握るための前提条件とする共和制の要求や小邦分立主義とプロイセン主義の除去によるドイツ再編成(ドイツ統一共和国)の要求が書かれていないことなどを批判」(Wikipedia)していた。しかし、当時のSPD指導部は、「今は合法的活動と党組織の拡充に専念し、来たるべき体制の危機に備える」という「待機主義」を続けた。

 

 SPDは、国際的にも第二インターナショナルにおける最大の社会主義政党であり、第2インターナショナル加盟政党の模範たる存在だった。

 「第二インターナショナルは、1900年、1904年、1907年と大会を開くたびに戦争反対の決議をした。とくに1907年のシュツットガルト大会では、⑴ 戦争は資本主義の本質に根ざす。⑵ 戦争が起こると、その最大の被害者は兵士、また軍需工場に動員され物価騰貴に悩まされる労働者である。⑶ だから各国の労働者階級と議会におけるその代表者は、インターナショナルの統制と協力のもとに、最も有効な手段で戦争防止に全力をつくす義務がある。ただし、その方法は国家の情勢次第で違っていて差し支えない。⑷ にもかかわらず戦争が起こったら、速やかに戦争を終結させる努力をするとともに、全力をあげて戦争による経済的政治的危機を利用し、資本主義的階級支配の撤廃を促進すべき義務を負う、との決議がなされた。

 ところが、実際に戦争が起こると、各国の社会主義政党はことごとく戦争支持に転向したのである」(『国家と経済』)。

 

 マルクスは、資本制生産様式の矛盾の爆発を周期的恐慌に見ていた。しかし、1873年の激しい恐慌後は、中央銀行の積極的な金融政策や独占の形成によって、その“周期性”は、目立たなくなった。その代わりに現れたのは、不況と階級対立の慢性化であった。

 先進各国での、慢性化する不況と階級対立への不安や台頭する新興国への恐怖など、イライラ・焦りのネガティブな感情は、“排外主義”となって、第一次世界大戦で爆発したのだ。

 

 「第一次世界大戦の犠牲者は、戦闘員および民間人の犠牲者の総計として約3,700万人が記録されている。……これは人類の歴史上、最も犠牲者数が多い戦争の1つと位置付けられている。また、少なくとも戦争を起因とする疾病によって亡くなった者(戦病死者)は200万人、行方不明者は600万人とされている。(中略)

 惨禍の一端は、『ソンムの戦い』 ―― 1916年7月1日から11月19日までフランス北部・ソンム河畔での、イギリス軍・フランス軍によるドイツ軍に対する大攻勢 ―― に見ることができる。ソンムの戦い第一次世界大戦で損害の最も大きい戦闘であった。

攻勢初日、7月1日の攻撃は失敗に終わる。イギリス軍は戦死19,240人、戦傷57,470人ほかの損失を被った。これは戦闘1日の被害としては大戦中でもっとも多い。

 ソンムでの一連の戦闘でイギリス軍498,000人、フランス軍195,000人、ドイツ軍420,000人という膨大な損害を出したが、いずれの側にも決定的な成果がなく、連合軍が11km余り前進するにとどまった。……ソンムの戦いが開始した7月1日はイギリスで記念されており、イギリスの歴史家ジョン・キーガンは1998年に、『イギリスにとって、ソンムの戦いは20世紀最大の軍事悲劇であり、その歴史全体においてもそうである。(中略)ソンムの戦いは命をなげうって戦うことを楽観的に見る時代の終結を意味した。そして、イギリスはその時代には二度と戻らなかった』と述べている」(Wikipediaを再構成)。