断章494

 「私の業績に関する限り、近代社会における階級の存在を発見し、さらにその階級闘争を発見したことは、なんら自分の貢献ではありません。ブルジョワ歴史家がすでに私のまえに、この階級闘争の歴史的発展を暴露し、ブルジョワ経済学者はこれら諸階級の経済的解剖を試みていたからです。私があらたに成しとげた業績は、つぎの点を明らかにしたことにあるのです。⑴ 諸階級の存在は、生産の発達に制約された特定の歴史的諸闘争にのみ関連している。⑵ 階級闘争は、必然的にプロレタリアートの独裁にみちびくこと。⑶ この独裁はすべての階級が廃絶される無階級社会への過渡期を構成するにすぎないこと」。

 1852年、マルクスはワイデマイヤーあての手紙にこう書いた。

 

 マルクスは、共産主義社会の到来は歴史的必然であると確信していた。だから、資本との闘いにおいて自己の歴史的使命(階級的自覚)に目覚め、社会主義革命に勝利した「プロレタリアートの独裁は、すべての階級が廃絶される無階級社会への過渡期を構成する」と、お気楽に思っていた。

 自己の歴史的使命(階級的自覚)に目覚めたプロレタリアートの独裁が、“変質させられる”とか、すっかり“堕落する”とか、まるごと“別のものに転化する”ということは、マルクスの想定外なのである。

 マルクスは、「哲学から飛び出して、普通の人間として現実の研究に取り掛からなくてはならない」という問題意識をもっていた。しかし、“史的唯物論”において提出された、マルクスの人間観ないし人間学には、まだ哲学のシッポが残っている。

 「人間の本質は、社会的諸関係のアンサンブルだから、資本制社会と無階級社会では人間の本質は異なる」とか言っても、無益である。

 「普通の人間として」からさらに進んで、「普通の人間について」の研究が必要なのである。

 

 さもなければ、たとえば、なぜ、日本共産党が、あれほど多くの党有名幹部たち(若い方はご存じないだろうから、「野坂 参三」・「伊藤 律」などをググってください)を、“裏切者”“脱落者”“反党反共への転落者”“スパイ”として追放したのか?

 ひとたび、労働者階級解放を通じて全人民の人間的解放を実現するために生涯をささげると誓った(はずの)者たちが、なぜ?

 さらには、なぜ、当の日本共産党自身が、「ソ連、中国、天皇、革命 ―― この政党がやってきたこと、やろうとしていることがすべてわかる!」(『日本共産党 暗黒の百年史』)と、元党員から命がけの告発(出版社コピーより)をされるのか?

 

 賢い人たちは、賢い人たちとだけ交際するので、思いのほか「普通の人間について」知らない。だから、人間を知るために、「普通の人間として」からさらに進んで、「普通の人間について」の研究に取り掛からなくてはならない。