断章392
「社会主義の学説は、有産階級の教育ある代表者、インテリゲンチャによってつくりあげられた哲学的、歴史的、経済的理論の中から成長してきた。近代の科学的社会主義の創始者であるマルクスとエンゲルス自身も、その社会的地位からいえば、ブルジョア・インテリゲンチャに属していた」(レーニン)。
マルクスは、大陸から追放されてからの後半生の30年以上のロンドン滞在中ほとんど毎日のように大英博物館図書館に通って勉強した。マルクスの革命理論は、読書と急進的インテリゲンチャとの文通から生まれたものであるから、「実際の経験からのみ得られる生の知識」(シュンペーター)を欠いている(日本のインテリがマルクスを好むゆえんである)。
マルクスの革命理論は、悪く言えば、「机上の空論(注:机の上で考えただけの、実際には役に立たない理論。実地に適用できないむだな議論)」である。
良く言えば、ユニークな理論モデルである。しかし、結局のところ、モデルは虚構である。
「モデルは使ってよろしい。だがウィトゲンシュタインも言ったように、足場として上がり、周りを見回すべきであって、信用してはいけないし、まして鵜呑みにしてはならない。モデルがいつ有益でいつ有益でないかを知らなければならない」。
さもないと、その理論モデルは、「プロクルステスの寝台」(Wikipedia注:泊めた旅人が大きくてベッドからはみ出せば、はみ出した部分を切り落とし、旅人が小さければ、引っ張って引き裂いたという。人間を決して合うはずのないベッドに乗せ、無理やりベッドに合わせることでその命を奪うという神話)と化してしまうだろう。
“全体主義”は、ただひとつの公認イデオロギー(理論モデル)によって、十人十色、百人百様、千姿万態である勤労大衆(現実的人間諸個人)を指揮命令・管理統制しようとする。
マルクス主義は、その共産主義社会論にみられるように、本質において(インテリ好みの)「机上の空論」である。
「間違った思考は、それが首尾一貫し、究極まで貫徹された場合には、古くから知られた弁証法の法則にしたがって、その出発点とは正反対のものに到達する」(エンゲルス)という。プロレタリアート“解放の理論”を自認したマルクス主義は、インテリがプロレタリアートを“抑圧し利用するための理論”になった。