断章520

 人の一生は、宇宙的な次元から見れば、ケシ粒よりも小さく、まばたきよりも短い。けれども、凡愚なわたしたちにとっての一生は、たとえるなら、長い坂道を資産家たちの子弟子女が自動車であっという間に上がっていき、秀賢たちが電動アシストつき自転車でスイスイ上がっていくかたわらで、重荷を背負って徒歩ではい上がってゆくに等しいものだ。現世は、不合理で不条理である。

 

 わが日本は、世襲制縁故主義・官僚主導という特色がきわだつ“資本主義”である。

 善意のナイーブな人たちは、こうした日本的特殊性と“資本主義”の否定的側面に対する“トラウマ”や“反感”を抱かずにはおられない。人は、この“トラウマ”や“反感”を抱えつづけることはできない。

 ふつうの“宗教”や“世俗宗教としてのマルクス主義”は、善意のナイーブな人たちの“トラウマ”や“反感”の情念に応えるものだ。

 “世俗宗教としてのマルクス主義”(コミュニズム)は、マルクス主義者と“リベラル”の仮面をかぶったコミュニストたちによってプロパガンダされている。彼らは、お得意のネガティブ・キャンペーンによって、善意のナイーブな人たちの“日本国家”と“資本主義”に対する“トラウマ”や“反感”を“ルサンチマン”や“革命幻想”へと誘導する。

 善意のナイーブな人たちは、やがて完全に“洗脳”されて、「地位や名誉や金もうけをするために“前衛党”に入る人はいない。党員は、みんな真面目で公正かつ誠実である」「国民の苦難の軽減、平和、社会進歩のために私利私欲なく頑張ろう」と思うようになる。

 ところが、そうした善意のナイーブな人たちも、5年も党生活を送るうちに、党内での地位上昇をめざしたり、地方自治体議員に落ち着きたくなったり、自分の思索の手綱をまるまる党中央にゆだね、その時々の党中央の主張を丸写しに語るだけの人に落ちぶれてしまうのである。

 

 人間(ヒト)を直視すべきである。

 たとえば、スターリンは、レーニンの忠実な弟子であり私利私欲なく「真面目」だったという。いったいどう変わっただろうか?

 あるいは、有田 芳生の告白を聞くべきである。

 「大学卒業後、共産党系の新日本出版社の編集者となった。党本部に出入りして、上田 耕一郎副委員長の部屋へもしばしばお邪魔した。国際情勢の見方から大江 健三郎作品の面白さ、おいしい紅茶のいれ方までなんでも教えてくれた。(中略)

 風向きが変わったきっかけは、1980年の『文化評論』に載せた上田副委員長と作家の小田 実さんの対談だ。事前に宮本 顕治委員長(当時)も了解した企画で、掲載号は完売したが、数カ月後、小田さんが公の場で、共産党を、市民運動などを自党に系列化する『既成政党』として批判した。小田さんと共産党の関係が悪化し、私まで党内で批判された。1984年、長時間の『査問』(追及)を受けた末に自己批判書を書かされ、新日本出版社を追われた。

 ところが、2005年に小田さんと上田さんは雑誌で再び対談した。対立の総括や和解の経緯説明は一言もない。人生を変えられた者としては、どうしても解(げ)せなかった。

 新日本出版社退社後、党籍は残したままフリージャーナリストとなり、1990年に『日本共産党への手紙』という本を編集した。共産党への批判や提言を加藤 周一さんら文化人15人にもらった。事前に上田 耕一郎さんに相談すると、『いい企画だ』とうなずかれた。

 この本で党内外の自由かつ建設的な議論の種をまくつもりだったが、以前共産党に攻撃されたことなどを理由に寄稿を断る文化人は多かった。作家の佐多 稲子さんは、用件を聞くなり受話器をガチャン。哲学者の久野 収さんらも断った。

 共産党の対応は、さらに硬直的だった。『赤旗』が3回連載でこの本を批判した。私は再び査問され除籍処分に。上田 耕一郎さんは『だから(出版を)やめろと言っただろう!』(と言った)。言葉を失い、『これが、“政治的人間”というものか』とかみしめた」(2022/05/30 毎日新聞)。

 

 あるいは、“リベラル”の仮面をかぶったコミュニストたちがお好きな、“アソシエーション” ―― 現代版“新しき村”? ―― とはなにか?

 “リベラル”の仮面をかぶったコミュニストたちが、まるで竹林の仙人みたいに、空想的な“アソシエーション”の話がお好きなのは、単に彼らが自己の生存のための物資的基本条件をたっぷり確保済みのプチブルだからである。

 

 必要なことは、現世(金持ちの世襲や資本主義)に対する“反感”からその“拒否”へと飛躍することではない。「変えられないものを受け入れる心の静けさと変えられるものを変える勇気とその両者を見分ける英知」が必要なのである。