断章255

 第二次世界大戦勃発前の1938年には、「リベラルデモクラシー(自由な民主政)」「コミュニズム共産主義)」「ファシズム全体主義)」という3大勢力があった。

 1938年から30年後の1968年(冷戦時代)には、「ファシズム全体主義)」が滅び、「リベラルデモクラシー」と「コミュニズム共産主義)」の2大勢力になっていた。

 さらに30年経った1998年(冷戦終焉後)には、「コミュニズム共産主義)」も滅んで、「リベラルデモクラシー」だけが残った。

 フランシス・フクヤマは、「リベラルデモクラシー」とともに歩んでいく『歴史の終わり』に人類が到達したと宣言した。

 

 しかし、舞台は回り、歴史は繰り返すのが、人の世の常というものである。

 1930年代の、「リベラルデモクラシー(自由な民主政)」「コミュニズム共産主義)」「ファシズム全体主義)」の3大勢力は、第一次大戦後のアメリカの孤立主義世界恐慌後の階級構造(経済格差)や大衆意識の分断拡大に基礎を置いていた。

 もし、このままコロナがノーマルとなり、梅毒やエイズエボラ出血熱がじわじわ拡大し、アメリカの資産バブルが破裂し、気候変動が増し、巨大地震が来れば、1998年から30年後の2028年には1930年代のように、世界(日本)は、また疾風怒濤の全面的な経済・社会危機から政治危機へと進み、「リベラルデモクラシー(自由な民主政)」「コミュニズム共産主義)」「ファシズム全体主義)」という3大勢力の激突が再来しても不思議ではないのである。

 というのは、今や、「リベラルデモクラシー(自由な民主政)」の勝利をもたらしたアメリカの覇権には陰りが見え、また世界各国での経済格差や大衆意識の分断が拡大しているからである

 

 1939年、P・ドラッカーのデビュー作、『「経済人」の終わり』は、「ファシズム全体主義)」躍進の謎を探ったものだ。その第3章を引用・紹介する。

 

 「ブルジョワ資本主義とマルクス社会主義の崩壊は、あの世界大戦と大恐慌を通じて、人間一人ひとりの実体験となった。これら2つの破局が、既存の社会、信条、価値観を不変のものとして受け入れてきた日常を粉々にした。突然、社会の表層の下にある空洞がさらけ出された。ヨーロッパの大衆は初めて、社会が合理の力ではなく、目に見えない不合理の魔物によって支配されていることを知った。(中略)

 自覚しつつ孤独な存在となりうる詩人や哲人、キルケゴールドストエフスキーならば、魔物にひるむことなく正気でいることもできる。しかし普通の人間は、唯物的合理の追求の結果もたらされた計算不能で意味のない力による完全な分子化、非現実化、無意味化、秩序の破壊、個の破壊に耐えることはできない。(中略)

 こうして、今ではそれら新しい魔物たちを追放することが、ヨーロッパの社会にとって最大の目標となった。

 ウィルソン大統領の14か条から、アンソニー・イーデンに象徴される集団安全保障の理念の崩壊にいたる間、そして、国際連盟規約の第1次草稿から軍縮会議の失敗にいたる間、ヨーロッパの大衆は、戦争の追放、しかも永久の追放を望み続けた。もし、善意や熱意、条約によってなくせるものならば、とうの昔に戦争はなくなっていたはずだった。しかし、国際連盟、集団安全保障、集団軍縮による戦争の追放は失敗せざるをえなかった。(中略)

 戦争の抑制のみによって平和を維持しようとする体制は、あらゆる地域紛争を世界的な大火災の引き金とし、大戦勃発の可能性を高めるだけである。〈中略〉

 恐慌を絶滅することによって現在の経済体制を救おうとする試みの数々は、戦争を追放するための努力よりもさらにいっそう、追放すべき魔物の強さをうかがわせる結果となっている。(中略)

 チェンバレンチャーチルに対して勝ち誇ったように、経済の分野においても、他のすべてを犠牲にしようとも、経済の魔物を絶滅すべきであるとの主張が世を風靡している。大衆は、魔物の力によって支配される世界には耐えられない。(中略)

 経済発展への信条は地に墜ちた。・・・経済発展への拒絶反応が無制限に広がりつつある。もはや、経済発展の神様に対してはお愛想さえ聞かれない。その代わりに、恐慌に対する安定、失業に対する安定、経済発展に対する安定など、安定が普遍かつ最高の目標となっている。経済発展が安定を脅かすのであれば経済発展のほうを捨てる。

 もしここで新たな大恐慌の危険が生じるならば、ヨーロッパ中のあらゆる国が、魔物を退治し、あるいはその猛威を緩和するためとして、たとえそれが経済発展を妨げ、経済後退を必然とし、貧窮を長期化させるものであっても、いかなる措置でもとるに違いない。

 これまでの信条や制度を従属的な地位に落とすことを辞さないというこの新しい傾向は、民主主義そのものについても現れている。(中略)

 もはや民主主義の実体の凋落は、制度的な公式によっては救えない。民主主義が、自らの伝統に根差し、その歴史の過程において自ら勝ちとってきたものとして意識されている国ならば、その民主主義にも力が残されている。しかし、そのようなものでさえ、魔物たちの退治のためには放棄が必要とあれば直ちに棄てられてしまう。

 こうしてついには、自由そのものの概念が値打ちを下げた。経済的自由は平等をもたらさないことが明らかになった。自らの利益を最大にすべく行動するという経済的自由の本質が社会的価値を失った。

 大衆は、経済的自由が恵まれざる者の存在をなくすことができなかったために、それを社会的に有益なものと考えることをやめた。失業の脅威、恐慌の危険、経済的犠牲を遠ざけてくれるのであれば、まさに経済的自由の放棄のほうが受け入れられ、さらには歓迎さえされるようになった。(中略)

 大衆は、世界に合理をもたらすことを約束してくれるのであれば、自由そのものを放棄してもよいと覚悟するにいたった。自由が平等もたらさないならば自由を捨てる。自由が安定をもたらさないならば安定を選ぶ。自由によって魔物を退治できないとなれば、自由があるかないかは二義的な問題に過ぎない。自由が魔物の脅威を招くのであれば、自由の放棄によって絶望からの解放を求める。(中略)

 ファシズム全体主義は、まさにわれわれの生きる時代の根源的な事実に根差している。すなわち新たな信条と秩序の欠如である。旧秩序は有効性と現実性を失った。旧秩序の世界は不合理な魔物の住むところとなった。しかし新たな信条の基盤となり、かつ新たな目的のために社会を組織するうえで必要となる新たな形態と制度の基盤となるべき秩序は、現れていない。(中略)

 大衆がファシズムとナチズムに群がり、ムッソリーニヒトラーに身を投じたのは、ファシズム全体主義が理性に反していたにもかかわらずでも、すべてを否定していたにもかかわらずでもない。まさに、それらが理性に反し伝統を否定していたからである」。