断章250

 「本書の分析は、ドイツにおいてナチスが政権を奪取したときには、事実上完了していたといってよい。事実、その後数年間の現実の動きは、私の分析の正しさを証明していた。しかも私はかなり正確に予測していた。こうして私の分析が単なる仮説以上のものであることが明らかになったとき、私は本書の刊行に踏み切った」(P・ドラッカー『「経済人」の終わり』) ―― 以下は、第1章の抜粋・再構成である。

 

 「ファシズム全体主義は着実に勢力を伸ばし、ヨーロッパにおいて覇権を唱えるにいたった。なぜ民主主義諸国は自らの信条のすべてを脅かす重大な脅威を抑制できないのか。

 ファシズム全体主義の教義に対する闘いが実を結んでいない原因は、われわれが何と戦っているかを知らないからである。われわれはファシズム全体主義の症状は知っているが、その原因と意味を知らない。

 したがってファシズム全体主義の原因の分析こそ緊急の課題である。ファシズム全体主義を理性的に理解することは、ファシズム全体主義の世界への拡大を防ぐ闘いに勝つための唯一の基盤である。

 ファシズム全体主義の本質については三つの謬説がある。

ファシズム全体主義は、人間のもつ原初的な野蛮性と残虐性の悪質な発現である。

 しかし、この説は何も説明していない。野蛮性と残虐性それ自体は、ファシズム全体主義が革命であることを示す症状の一つであるにすぎない。野蛮性、残虐性、血生臭さはあらゆる革命に共通する。

ファシズム全体主義は、マルクス社会主義の必然的かつ最終的な勝利を妨害するためのブルジョワ資本主義最後のあがきである。

 この説は、歴史を改竄することによって、マルクス社会主義と現実の条理を合わせようとする根拠薄弱な試み以外の何物でもない。こじつけであって真面目な説明ではない。

ファシズム全体主義は、無知な大衆の下劣な本能に対する巧妙かつ徹底したプロパガンダの結果である。

 最も危険でかつ最も愚かなものが、プロパガンダ説である。ドイツのナチスやイタリアのファシスト御用新聞はほとんど読まれず、常に倒産寸前だった。ドイツの国営ラジオ局は、次々に反ナチズムの番組を放送していた。教会は、新聞やラジオよりもさらに強力に、説教壇や告解室さえ使ってファシズム全体主義と闘っていた。

 しかしそのようなことよりも、大衆がプロパガンダに毒されやすいことがファシズム全体主義蔓延の原因であるとする近視眼的な自己欺瞞のほうが、はるかに重大な問題である。

 ファシズム全体主義と他の革命との違いを理解するには、ファシズム全体主義に特有の新しい症状の分析から手をつけなければならない。

 ファシズム全体主義に特有の新しい症状は次の三つである。

ファシズム全体主義は、積極的な信条を持たず、もっぱら他の信条を攻撃し、排斥し、否定する。

ファシズム全体主義は、ヨーロッパ史上初めて、すべての古い考え方を攻撃するだけでなく、政治と社会の基盤としての権力を否定する。すなわち、その支配下にある個人の福祉の向上のための手段として政治権力や社会権力を正当化する必要を認めない。

ファシズム全体主義への参加は、積極的な信条に代わるものとしてファシズムの約束を信じるためではなく、まさにそれを信じないがゆえに行われる。

 

 ファシズム全体主義だけに見られる前記三つの特性こそ、分析の基礎とすべきものである。

 旧秩序は崩壊したが新秩序が生まれていない。その結果は混沌である。絶望した大衆は不可能を可能とする魔術師にすがる。労働者に自由を与えつつ、産業家に工場の主導権を回復させ、小麦の価格を上げつつパンの価格を下げ、平和をもたらしつつ戦争に勝利し、一人ひとりの人間にとってすべてとなり、あらゆる人間にとってあらゆるものとなることを約束する魔法使いにすがる。

 したがって、大衆がファシズム全体主義に傾倒するのは、その矛盾と不可能にもかかわらずではない。まさにその矛盾と不可能のゆえである。なぜならば、戻るべき過去への道は洪水で閉ざされ、前方には越える術のない絶望の壁が立ちふさがっているとき、そこから脱しうる方法は魔術と奇跡だけだからである。

 大衆の絶望こそファシズム全体主義を理解するうえでの鍵である。暴徒の騒動でもプロパガンダの仕業でもなく、旧秩序の崩壊と新秩序の欠落による純なる絶望がその鍵である。

 何が崩壊したか。それはなぜか。いかにしてか。ファシズム全体主義はいかなる奇跡を起こそうとしているのか。いかにして起こそうとしているのか。いかにして起こせるのか。新しい秩序はありうるのか。いつありうるのか。いかなる基礎の上にありうるのか。私はこれからの分析において、これらの問いに答えなければならない」。