断章256
『タイムズ』は、1785年に創刊された世界最古のイギリスの日刊新聞である。その『タイムズ』に、『「経済人」の終わり』へのウィンストン・チャーチルの「書評」が1939年5月27日付けで掲載された(以下はその一部である)。
「ドラッカーは、独自の頭脳を持つだけでなく、人の思考を刺激してくれる書き手である。それだけで全てが許されるという存在である。(中略)
ドラッカーは、ファシズム全体主義を、絶望したブルジョワ資本主義の最後のあがきと位置づける俗説を一蹴する。絶望の淵にあるのはブルジョワ資本主義だけではない。マルクス社会主義も同様の状況にある。
もちろん、今日のわれわれにとって重要なことは、理念としてのブルジョワ資本主義の正当性である。大量かつ安価な生産の手段としてのブルジョワ資本主義は、少しも失敗してはいない。資本主義がしくじったのは、『経済人』を社会の理想としたことにおいてだった。
産業全盛の頃は、自由競争体制が自由と平等を与えるものとされた。ヨーロッパ文明において中核に位置づけられていたものが、この自由と平等だった。ところが今日、大衆は、自由競争体制を自由と平等の手段と見ることをやめた。ここに今日、われわれの社会の破綻の根源がある。
マルクス社会主義が、別の階級なき社会を提示した。しかしそれもまた、現実には、それ自体の階級構造を生み出すことによって魅力を失った。こうして既存の社会秩序が正当性を失い、大衆には戦争と失業という双子の悪魔に抗する術がなくなった。いまやそれらは、人にまつわりつく悪霊である。望みうることは、半神半人による悪霊払いしかない。全体主義の独裁が約束しているものがこれである」。
以下は、『「経済人」の終わり』、第4章「キリスト教の失敗」の引用・再構成である。
「大衆は、意味をなくした世界への恐怖に絶望していた。大衆が、ブルジョワ資本主義とマルクス社会主義の基本である『経済人』の概念の崩壊を経験した後では、キリスト教会がその真空を埋めなければならなかったはずである。
民主主義以前、資本主義以前の体制に戻ることなく、産業社会の構造を非唯物的な秩序に組み込むこと。まさにこの課題こそ、大戦前の100年間、ヨーロッパの宗教界と宗教活動の中心に位置づけられていたものだった。
そのため、労働条件の改善、最低賃金の保障、労働災害の防止も、クエーカー教徒の産業家によって実現された。労働者に人間性を回復させ、機械と同列の存在から、個性と人格を持つ存在に変えることが、それらの改革の理念だった。さらには、『産業民主主義』の概念が生まれたのも、資本主義初期の聖人ともいうべき人物、ロバート・オウエンのおかげだった。そして協同組合を生んだのがこのオウエンだった。
同じように、中小の商工業者が産業の資本主義化と労働者のプロレタリア化の2つの臼(うす)にひかれるのを防ぐために動いたのも宗教的な勢力だった。農業協同組合や信用組合の多くも、教会や政界の権威筋の意思に反して行動した下級の聖職者たちによって設立された。土地制度、小作制度、エンクロージャー運動など、ブルジョワ資本主義やマルクス社会主義が闘うに値しないとしていた問題に取り組んだのも、カトリックやプロテスタントの聖職者たちだった。
教育の分野における最も重要な動きは、社会的な動機によるものだった。日曜学校を始めたイギリスの福音派、非行少年や浮浪児のためのホームをつくったハンブルクのプロテスタント牧師ヨハン・ヴィへルン、ミラノの貧民街に子供の自治的組織をつくった修道士のドン・ジョヴァンニ・ボスコは、功利的な経済中心の人間観ではなく、キリスト教の人道主義に立つ人間観の復活を目指していた。
キリスト教は、今日これまでの数世紀において最も力を持つ存在となった。しかも社会のリーダーたるべき人たちの帰依を得ている。しかし、それでもなお今日、キリスト教はいまだかつてないほど無力であるとの一般の印象は正しい。
単に大衆が、キリスト教が行った建設的な仕事の意義を見逃し、その社会的、政治的立場の否定的側面だけを見ていたわけではない。事実上、教会自身、きわめてしばしば反動的立場に立っていた。唯物的な社会を容認できない教会としては、ブルジョワ資本主義やマルクス社会主義には反対せざるをえない。しかしその教会にしても、・・・社会のあり方について建設的な新しい信条を構築していたわけではなかった。
そのため教会は、ファシズム全体主義が、マルクス社会主義よりもさらに反宗教的であり、かつキリスト教の信条に反することを知っていたはずであり、事実知っていたにもかかわらず、きわめてしばしばファシズム全体主義の側に立ってしまっていた。
キリスト教が、新しい社会の基盤を提供することに失敗したのは、説教壇からよく聞かされるような現代の不信心のせいではない。それどころか、一流の人たちが教会になびく時代であるからには、大衆の宗教に対する欲求はきわめて強いといわなければならない。
ところが、教会は社会に関わる問題を解決できずにいる。今日行っていることは、一人ひとりの人間に対し、私的な宗教として私的な避難所を提供しているにすぎない。新しい社会、新しいコミュニティは何らもたらしえないでいる。
私的な宗教体験は個人にとって重要である。それは、神を与え、安らぎをもたらし、自らの本質と役割を理解させる。しかしそれだけでは、社会を再生し、社会とコミュニティにおける生活を意味あるものにすることはできない。今日では最も敬虔なカトリックでさえ、神が純粋に個人的かつ翻訳不可能な体験だったキルケゴールをはじめとする過激なプロテスタントと同じ状況にある。社会においては、孤立と孤独と不合理のうちにある。
このような状況は教会にとっては信者が一人もいなくなるよりもひどい。無神論者の世界にあって迫害されている小さな教会でも、それが信者にとってコミュニティになっているならば教会としては成功している。そのような教会ならば、やがて唯物論の空虚が明らかにされたとき、意気揚々と舞台に登場することができる。事実それは、フランス革命の後に起こったことだった。一世代か二世代後にはソ連でも起こるかもしれない(引用者注:1939年にドラッカーはこう予言し、東欧で旧・ソ連で、実際そうなった)。
なぜならば、自らを維持しかつ改革していくことのできる教会は、たとえ小さなものであっても真のコミュニティになっているからである。いかに信者が多くとも、私的な宗教体験と私的な満足しか与えられないのでは、少なくともヨーロッパ人の語彙にいうところの教会ではない。そのような教会は合理の基盤としての資格を失っている。かつてはあらゆる種類の魔物を退治していたとしても、現代の魔物は退治できないということになる。
状況を単純化していることは私も承知している。このような単純な議論が認められないであろうことも認識している。しかし、この私の見方は、いわば状況の最大公約数であるがゆえに唯一の意味ある見方というべきである。
教会は、社会的領域においては、マルクス社会主義に似た役割しか果たすことができない。それは既存の秩序における鋭い批判者であるにとどまる。教会は、その枠を超えては失敗せざるをえない。事実すでに失敗している。
大衆は絶望し、魔物のいない新しい合理の秩序を求めている。大衆は、社会をもたない孤独な個人として世界に対峙することはできない。しかもマルクス社会主義からも教会からも救いを得ることはできない。
信条としてのマルクス社会主義はすでに昨日のものである。したがって、ヨーロッパが存在するかぎり、やがてキリスト教はその基盤として復権するに違いない。しかし、それも今日の大衆にとって重要な問題ではない。彼らにとって関心があるのは、今日のことである。今日の絶望の現実であり、恐怖である。どうすれば直ちに魔物を退治することができるかである」。