断章137

 「海の中で、大きくゆっくりと泳ぐクジラ。夢占いではクジラが夢に出てくることは環境や人間関係の大きな変化を暗示する」という。新型コロナ以後の金融の世界も大きな変化を迎えるのだろうか。

 金融の世界にもクジラがいる。例えば、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)もそのひとつである。

 4月1日付けで、「約160兆円におよぶ国民の厚生年金と国民年金の積立を管理運用する世界最大規模の年金ファンド『年金積立金管理運用独立行政法人』(GPIF)の新理事長に宮園雅敬氏が就任した。

 『GPIFは2019年10月、当時理事長だった高橋則広氏を、女性職員との特別な関係を疑われかねない行為があったと懲戒処分にした。その件を巡り怪文書が出るなど、内部対立があり、高橋氏や他の2人の理事が2020年3月末に退任する事態に発展しました』(金融機関幹部)。前理事長である高橋氏も、宮園氏も農中の専務理事経験者で、2代続けて農中出身者がトップに就いた。(中略)

 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、世界的に株価は乱高下を繰り返している。GPIFの1月から3月の運用損失は最大で20兆円を超える可能性がある。

 宮園氏は、ガバナンスの立て直しと混乱する市場への対応という2つの難題にいきなり直面する。新理事長の手腕が問われる」(2020/04/07 文春オンライン・森岡 英樹)。

 

 「大手シンクタンクが相次いで、新型コロナウイルス感染拡大による世界同時株安の影響を受けて公的年金を運用するGPIFが2020年1~3月期に運用資産を17兆円以上減らした可能性が高いことを報じている。

 GPIFが失った17兆円というのは2018年10~12月の14.8兆円を上回る過去最大規模であるのと同時に、1年間の公的年金給付額の3分の1程度に相当する大規模なものだ。

 大和総研は4月3日に公表した特別レポート『コロナ・ショックと世界経済』の中でメインシナリオ(新型肺炎の流行期が日本で5月、欧米で6月、中国で4月に収束)として新型コロナによって2020年の日本の実質GDPが21.7兆円押し下げられるという予測を示しているので、GPIFは2020年1年間のGDPの減少とほぼ同規模の年金資産減少に見舞われたことになる。

 GPIFの運用資産が17兆円減少したことに対して『GPIFは市場運用を開始した2001年度以降これまで75兆円もの収益を上げており、長期的に見れば17兆円程度の資産の減少など問題ではない』という意見も根強くある。

 しかし、GPIFがこれまで上げてきた収益は現金として貯められているわけではない。実際に昨年末時点でGPIFが保有している『短期資産』は5兆7334億円に過ぎない。それは、GPIFの収益は年金特別会計に納付されるほか、運用効率を上げるために株式や債券に再投資されているからだ。これまで累計で75兆円ほどの収益は既に年金特別会計を通して年金として給付されているか、リスク資産に再投資されている。

 つまり、GPIFがこれまで獲得してきた収益のほとんどは、既に年金給付に使われたか、今現在リスクにさらされているかのどちらかであるため、これまで75兆円もの累計収益を上げてきたといっても今後の年金給付が大丈夫ということにはならない。

 GPIFの運用資産が増えた、減ったという話題はメディア等で報じられている。

 しかし、『年金財政を概ね100年間で均衡させるため、当初は年金給付の一部に積立金の運用収入を充て、一定期間後からは運用収入に加えて、積立金を少しずつ取り崩し、最終的には概ね100 年後に年金給付の1年分程度の積立金が残るよう、積立金を活用していく財政計画が定められています』(2018年度GPIF『業務概要書』)ということが報じられることはほとんどない。

 ポイントは、2019年末時点で約169兆円に及ぶGPIFが運用する年金の積立金は『一定期間後』から少しずつ取り崩されることが決まっていることと、『運用収入に加えて『積立金を少しずつ取り崩す』というところ。

 問題は『一定期間後』というのがいつになるのかという点である。そのヒントが昨年発表された5年ごとに行われ『財政検証』で示された163通りものシミュレーション中の慎重な経済見通しに基づいたケース(ケースV)に基づいた『公的年金の財源と給付の割合』に見て取れる。

 この『ケースV』の前提となっている『物価上昇率0.8%、賃金上昇率(実質<対物価>)0.8%、運用利回り(スプレッド<対賃金>)1.2%』という当時としての『慎重な経済前提』は、現状あるいは2020年の経済見通しと比較すれば『夢のような経済前提』だ。

 今となっては『夢のような経済前提』でも2020年度から年金給付の財源として『積立金から得られる財源』が使われ始める見通しになっている点には要注目である。

 年金給付の財源はその年の保険料収入と税金で9割程度が賄われており、GPIFの積立金運用に伴う短期的な市場変動は年金給付に影響することはない。しかし、新型コロナウイルス感染拡大による経済低迷によって、経済に連動する保険料収入と税金が減少することは、ほぼ確実である。

 こうした環境で問題になって来るのが『運用収入に加えて』という部分である。

 コロナウイルス感染拡大による市場の混乱によってGPIFの保有資産が17兆円以上目減りしたということは『運用収入』が失われたということである。

 仮に保険料収入と税金に加えて運用収入も想定額に届かなかった場合、所定の年金給付財源を確保するためにはGPIFの積立金を取り崩して不足分を補うということになる。それは、経済と金融市場が混乱する中で株式や債券を売りに出すということである。

 株式市場が大幅に下落する中で資産の売却に迫られる構図は、1990年のバブル崩壊局面で投資信託運用会社が経験した。大量解約に対応するために株価が大幅に下落するなかで株式売却を迫られ、その売りがさらなる株価下落と基準価額の下落を招き、さらなる解約を生むという地獄絵図の再現である。

 GPIFは2019年末時点で5.7兆円の『短期資産』を持っているので、年金給付の財源として必要になる資金がこの範囲内であれば世界同時株安という状況の中で無理に保有株式を売却する必要はない。しかし、それは『短期資産』で大きく値下がりした株式を購入することを放棄することであるから、株価が元の水準に戻らない限りGPIFの資産が元に戻れないということでもある。

 新型コロナウイルス感染拡大によって経済と金融市場が混乱をきたしても、GPIFの積立金の取崩しをすれば、『株価の下落が年金給付に直ちに影響を及ぼすことはない』。しかし、想定より早くGPIFの積立金を年金給付の財源として使い始めるということは、想定より早くGPIFの積立金が枯渇するということでもある。

 つまり、足もとの株価下落による悪影響を受けるのは『現在の年金世代』ではなく『将来の年金世代』だということである。こうした状況でも『年金は長期運用だから目先の損失などで騒ぐ必要はない』といっていられるのだろうか。(中略)

 確かに、日本の新型コロナウイルス感染者数は、感染患者の増加のスピードを抑え感染者数のピークを先送りするという基本方針が功を奏しているのか欧米に比較すれば低く抑えられている。日本のこのような基本方針によって医療崩壊もギリギリのところで避けられた格好になっているが、金融市場にとってそれが必ずしも好結果をもたらすとは限らない点には注意が必要だ。(中略)

 金融市場にとっての問題は『時間軸』である。欧米諸国で感染者数が拡大している現在の局面での日本の立ち位置は『比較的安全な国』だ。

 しかし、欧米の感染者数がピークを越し減少し始めた局面を迎えると、日本の立ち位置はこのまま感染者数を医療崩壊の起きないギリギリのところで維持できたとしても、『感染者数がピークに達していない国』『新型コロナウイルスのリスクが残る国』に変わってしまう。こうした見方が世界に蔓延することは、・・・日本の株式市場に逆風を吹き付ける要因になりかねない。(中略)それは、GPIFの運用成績が回復しないことであり、将来世代の年金給付に支障をきたすということだ」(2020/04/07 現代ビジネス・近藤 駿介)。

 

 「『年金運用は、短期的な損益ではなく長期的な損益で見るべきだ』とGPIFは言う。長期的に収益を獲得することを目的に運用している資金だし、資金サイズ的に身軽に動くことができる運用条件ではないので、短期の損益で良し悪しを評価されてはたまらないという意識があるのだろう。

 しかし、短期的な損であっても、『損は損』であり、その後に必ずそれが取り戻せるという保証はないのであって、『長期、長期…』と言い募(つの)るのは、不適切だ」(山崎 元)。

 さらに、今春、GPIFは資産運用の割合を示す「基本ポートフォリオ」を5年半ぶりに見直し、投資収益が低迷している国内債を減らし、その分、外国債券の比率を10%引き上げる。「国内債、国内株、外国債、外国株の運用比率がいずれも25%となり、外国資産の割合が半分になります。これで、為替変動を含めたリスク度は一段と高まる」(市場関係者)。「本当にこんなにハイリスクな運用が必要なのか」(山崎 元)。

 

 リーマンショックやチャイナショックによる巨額損失のたびにGPIFの運用は批判されてきた。しかし、それらの批判は、単四半期や単年度の運用損失のみをあげつらい、自公政権を批判できそうな材料なら何でも投げつけるという政治的な思惑から生じたものであったから、その後の運用成績の盛り返しによって、いつのまにか“終息”したのである。

 

 だが今、こうした政治的な思惑でない真剣な議論をすべき時が来たのではないか?

 なぜなら、新型コロナ後の世界は、これまでの常識(例えば、運用の世界では、「長期、分散投資が有利」)が通用しないかもしれないからである。

 なるほど、「過去1000年間、ロンドンでの不動産投資は成功を収めている。しかし、アメリカのネイティブアメリカン、メキシコのアズテック族、ペルーのインカ族や、それらの地域の住民は土地を失い、多くは命も失った。すべてが変わってしまった」ことや、「1918年のロシア市場、1945年以降の東ヨーロッパ諸国、1949年の上海市場のように、株式市場そのものが無くなる」ことが、この世には起きるからである。