断章68

 「韓国の日本に対するエキセントリックな感情や挑発は、日本の一部の知識人と称する者たちを含め、日韓併合という歴史的事件を錦旗に掲げて正当化されがちである。しかし、それは単なるごまかしに過ぎない。韓国が国際世論の常識をはるかに踏み越えた姿勢を取る理由は、日本とはまったく異なる朝鮮の歴史から形づくられた、日本人には理解しがたい独自の価値観にある」(『韓国人に不都合な半島の歴史』)。

 韓国独自の“価値観”(そのメンタリティとビヘイビア。精神構造と行動様式)を知るためには、“檀君王倹”に始まるという韓国(朝鮮)2000年の歴史をひもとく必要がある。

 

 韓国歴史ドラマには、「三韓統一」に関係するものがある(『善徳女王』など)。

 『検定版 高等学校韓国史』では、「中国を統一した隋や唐は勢力拡大を図り、高句麗を攻撃した。高句麗が隋・唐の侵略を食い止める間、百済新羅をしばしば攻撃した。新羅高句麗と同盟を試みたが失敗し、その後唐と連合軍を結成して百済を攻撃した。政治秩序の乱れと支配層の享楽によって国家的一体感を失っていた百済は、結局洒沘城が陥落すると滅亡してしまった。新羅と唐は引き続き高句麗を攻撃した。高句麗は度重なる戦争で国力を激しく消耗し、淵蓋蘇文が死んだ後、支配層の間に権力争奪戦が起こり新羅と唐の連合軍を食い止められなかった。結局平壌城が陥落して、高句麗は滅亡した。・・・(その後)新羅は唐の勢力を追い出して三国統一を成し遂げた」。

 普通なら、ここでさしあたりメデタシメデタシのはずだが、『検定版 高等学校韓国史』には、まったく唐突に、「申采浩(シン・チェホン)が三国統一について書いた文章がある。これについて“探求活動”をしてみよう」と出てくる。

 それは、「他の一族を引き入れて同じ一族を滅亡させるのは、盗賊を呼び入れて兄弟を殺すのと同じだ。これは幼い子どもでもわかることだ。悲しい!わが国の歴史家よ!これを理解する者が大変少ない。前にも話したように、新羅の歴代王が常に外勢の助けを得て高句麗百済を滅亡させようとしたが、心はあってもことを起せず、ことを起しても成し遂げられなかったのだから、これは殺人未遂に匹敵することだ。太宗大王・金春秋がこのことのために心と力を尽くし、手腕を尽くしてついにこれを成し遂げた後には得意満面だった。半分ほどでも血の気を持った者ならばこれを罵り叱るのが正しく、排斥するのが正しいのに、今日その本末を問い詰めもせず、ただ『わが国統一の糸口をつかんだ王だ』という。彼がわが国だけでなく支那(中国)も日本も統一し、その他東西の多くの国々をもれなく統一したとしても、その功でその罪を覆うことはできないのに、まして三国統一した功でその罪を覆うことなどできまい」という文章である。

 唐突にこの文章が出てきたのは、「故・李承晩と故・金日成は、米国とソ連韓半島朝鮮半島)を分割統治するために連れてきたカイライ(操り人形)だ」という既出の“外勢”批判に“誘導”するためではないだろうか。

 

 その新羅であるが、「新羅は唐の勢力を追い出し」(前出)と威張れるような国ではなかった。

 なにしろ、金春秋が唐の援助をあおいだ後は、新羅固有の制度・年号を改めて、「唐の元号を用いるかたわら、名前や、服装を唐風に改めた。韓人の姓は三国時代までは二字姓だったが、創氏改名が強いられ、一字姓となった」し、新羅は自らを「大唐国新羅郡」とへりくだったような“事大”なのである。

 

 新羅の外交活動は、「唐との対立期には対日外交が重視され、日本へはほぼ毎年、使節が派遣され、時には年、複数回に及ぶこともあった。だが、7世紀後半、唐の新羅に対する軍事的脅威がなくなり、新羅・唐関係が改善されると、新羅にとって最重要外交相手国は唐となった。それにともなって、新羅の対日外交の意義は相対的に低下した。そのため、新羅はこれまでの低姿勢外交から対等関係での対日外交に臨むようになり、日本との間で軋轢が生じ、両国の関係は悪化の一途をたどった」(『韓国朝鮮の歴史』)。

 デジャヴーである。

 韓国は、冷戦期には彼らなりに「反日」を管理(抑制)していたが、グローバル経済時代に中国が貿易相手国1位になると、ここぞとばかり「反日」を全開している。