断章69

 新羅はやがて衰退に向かい、900年には後百済が、901年には後高句麗が建国して、後三国時代と称されるようになるが、936年には王建(ワンゴン・高麗太祖)による後三国の統一に至る。この高麗は次第に北方に勢力を拡大し、はじめて朝鮮半島のほぼ全域を支配するようになった。この王朝は34代、約500年にわたって存続する。

 

 「高麗が国家を建設する時、唐・宋の官僚制度を参考にしながら、文臣(文班)と武臣(武班)の2つの班からなる官僚制度を採用した。2の事を両と言う字でも表すためこの2つの班を会わせて両班(ヤンバン)と呼んだ。・・・文班は、958年から科挙制度を採用し、科挙の合格者を官吏として登用する制度を取った。しかし、五品以上の上級文臣の子は自動的に官吏になれる『蔭叙』が行われ、当初から上級官僚の貴族化を促していた」(Wiki)。

 「科挙の根幹をなしたのが、学問であり、なかんずく儒学を中心とした中国古典学である。政府(王朝)は、開京に国子監を開設して最高学府とし、儒学を正統的な学問・思想とした」。

 「高麗時代に作成された古代三国の正史『三国史記』(1145年完成)には、『城主』、『将軍』などという名称で多くの地方豪族たちが姿を現す。新羅盛期に『村主』として地域支配していた人々などが、王朝衰退期に軍事勢力として台頭してきた・・・高麗王朝成立に荷担した者も多かった。・・・安東権氏一族の始祖・権幸(クォンヘン)は、高麗王朝に対する功績から国王より権という姓、安東という本貫(ホンガン)の賜与を受けた。・・・住民たちの基礎的な地域単位である『邑』(ユウ)を基盤とする多くの豪族たちは、王朝から本拠地を本貫として認められ、また中国風の姓を名乗ることを許された。邑はさまざまな制度的改変をこうむったものの、他邑に吸収されたり、離合集散したとしても、高麗初期に本貫と定められたものの多くは現代にまで続いている」(『韓国朝鮮の歴史』放送大学刊)。

 「太祖王建は10ヵ条の遺訓を残したが、その8番目に風水説に基づき、現在の全羅道地域は地形が『背逆』の相にあり人民の心もまたそうだから、そこからは人材を登用してはならない」とあった。これは、高麗統一時に、後百済が最後まで抵抗した記憶もあったことだろう。ともあれ、旧百済人末裔たちは以後、地域差別を受け続け、中央官職から排除された。朝鮮史を貫く農民暴動も、実はこの全羅道地域を中心に起こることが多く、また最も強盛であった。その『伝統』は、日清戦争につながった東学農民戦争までに至る。

 それは、当地出身の金大中氏が大統領に就任するまで続いたと言ってもよい。この地域間の感情対立は、選挙時の各候補者への支持地域を見れば一目瞭然である。なお、全羅道差別とは別に、東北部の咸鏡道への地域差別もあった。両地域への差別は李朝にこそ本格化する」(「朝鮮史」萬 遜樹)。

 

 王朝成立から2世紀。門閥貴族間の内紛が続いた。『検定版 高等学校韓国史』の「2.支配勢力の交替」には、「特定の一族が権力を独占する現象に対する反省の機運も起こった。このような民心を利用して西京出身の鄭知常や妙清らは西京遷都を積極的に押しすすめ、西京に大花宮をつくって皇帝と称し金国を討伐しようと主張した。一方金富軾が中心になった開京勢力は、西京遷都と金国征伐に反対した」とある。

 門閥貴族間の内紛の文脈で語られた反乱にもかかわらず、本項のまとめでは、「丹斎申采浩が妙清の西京遷都運動を評価した文章を読んで“探求活動”をしてみよう」と言って、また申采浩の文章が出てくる。

 「妙清の遷都運動は・・・郎家および仏教対儒教の戦いであり、国風派対漢学派の戦いであり、独立党対事大党の戦いであり、進取思想対保守思想の戦いでもあったが、妙清は前者の代表で金富軾は後者の代表だった。妙清の遷都運動で妙清らが敗れ金富軾が勝ったことで、朝鮮史が事大的・保守的・束縛的思想の儒教思想に征服されてしまった。もし金富軾が敗れ妙清が勝ったならば朝鮮史は独立的・進取的に進展したのだから、これがどうして一千年来第一の事件と言わずにいられようか」。

 新羅のときと同様に唐突にまた申采浩の文章が出てきたのは、妙清たちが、「高麗の国王号は皇帝に改め(称帝)、独自の年号を建てれば(建元)、高麗は天下を統一し、周辺諸国を臣属させ、金国すら隷属できると主張した。西京遷都派は妙清を盟主として陰陽風水思想を信奉し、国際自立の政治主張を掲げて結集した」(『朝鮮史山川出版社刊)からというので、新羅のときと同様に“外勢”批判(国際自立の政治主張)に誘導したいからではないだろうか。

 

 だが、「文化が花開き、世界に開かれていた高麗」(『検定版 高等学校韓国史』)との自賛にもかかわらず、高麗建国後には「(中国)五代の各国から『高麗国王』の冊封を受け、宋が建国されると、963年にはその冊封を受けた。その一方で、993年に契丹の大軍が侵入してくると、翌年、宋との外交関係を断絶して契丹朝貢することにし、996年には国王が契丹皇帝の冊封を受けることにした。・・・高麗が支配から離脱する動きをみせると、契丹(遼)はふたたび1010年から翌年にかけて大軍を侵入させ、首都開京を破壊しつくして屈服させ、高麗国王が契丹皇帝に朝貢することを約させた」(『韓国朝鮮の歴史』)。また、「高麗は遼の崩壊と宋の南遷をみきわめて、1128年、金の冊封を受けて臣属し、金の『冊封体制』に参入した」(『朝鮮史』)のが、現実である。

 

 『検定版 高等学校韓国史』は、外国に対する新羅・高麗の朝貢・臣属・『冊封体制』という現実からできるだけ目をそむけようとしている。教科書の著者たちが官製民族主義者だから、一貫して独立を保った朝鮮民族ということにしたいのである。

 

 「ある者はこの世の明るい面だけを見ようとして片方の目を閉じたまま人生を送っていくかもしれないが、そんな人たちの抱く人生の理解は明るく美しいものであっても、けっして正しいものではありえない」(アーソン・グレブスト)。

 歴史もまた同じである。