断章84

 『検定版 高等学校韓国史』は、8項「抗日義兵運動が起こる」で4ページを使い、「国権を守るための民族的抵抗の中で最も積極的な抵抗は義兵運動だった」とする。

 「第一次朝鮮総督府統計要覧」の“義兵”との「交戦回数・交戦義兵数」まで引用して、激烈な抗日義兵運動があったという。

 1895年、乙未義兵。1905年、乙巳義兵。1907年丁未義兵と3期に分類している。

 乙巳義兵で平民義兵将が率いる部隊は、「山岳地帯を根拠地として小規模な部隊形態で遊撃戦を繰り広げ、日本軍と激しく戦った。特に平民義兵将、シン・ドクソクは太白山脈一帯で日本軍に立ち向かい、多くの戦果を上げた」。

 丁未義兵では、解散させられた大韓帝国軍の「軍人が義兵に合流したことで義兵の組織や威力がいっそう強化され、(中略)丁未義兵は規模や性格面から抗日義兵戦争に発展していった」と韓国・教科書は記述する。

 

 平民義兵将のシン・ドクソクは、「義兵1,000人余りを率い、あちこちで戦い、太白山の虎と呼ばれた」のくだりは、まるで洪吉童(ホン・ギルトン)である。

 それは、抑圧され収奪され差別された庶民が好む“お話”である。

 「洪吉童(ホン・ギルトン)は、道術を使う不思議な老人に弟子入りして、風を起こし雲を呼ぶ、神出鬼没の遁甲術を身に着け、その力で金剛山の山賊を従えて活貧党の首領となる。人心を惑わす僧侶、不正をはたらく役人や庶民を苦しめる貴族を懲らしめ、奪った金品を貧しい人々に分け与える。庶民から義賊と称賛される洪吉童を政府は逮捕しようと躍起になるが、分身を作って八道各地で同時に襲撃を繰返すため、どうしても捕まえることが出来ない」(Wiki)義賊の“お話”である。

 つまり、洪吉童(ホン・ギルトン)やイム・コッチョンという庶民が好む義賊の“お話”にイメージを重ね膨らませて、“抗日義兵戦争”ファンタジーを作っているのである。

 

 なお、ホン・ギルトンは、やがて部下とともに新天地を求めて海を渡り、ユルド国にたどり着き、その地の王族を征服して、やがて身分差別のない理想郷を作り上げたことになっているが、義兵将シン・ドクソクは部下の家に泊まったとき、その兄弟に殺された(注:ホン・ギルトンも他国の王族を征服したらしい。後世、謝罪と賠償は?)。

 

 「全承学編『韓国独立運動史』によれば、(乙未義兵から)16年間に及ぶ義兵総動員数は6万人。」「『高等警察要史』の数字では、日本政府側の死者336人、義兵の死者1万7,779人となっている」(黄 文雄)。

 「日本軍の行動は、『殺戮、放火、掠奪、暴行など、この世のものではない地獄』と書かれ」「統監府設置以後は、日本の憲兵警察が朝鮮半島の隅々までに駐屯し、『極悪非道』な弾圧と虐殺を意のままにしていたとよく書かれている」(同)。

 

 実際はどうだったのか。

 「朝鮮半島憲兵警察の数字と行政区域をいくら照らし合わせてみても、隅々まで憲兵警察を駐在させることは不可能である。統監府時代から3・1独立運動に至るまで、朝鮮人と日本人を合せた憲兵警察の総数は、初期の千人ほどから最高7千人まで、人数が年々増加していったとされてはいるが、各面(村)まで駐在させるには、数字的に不可能であった」(黄 文雄)。

 

 「義兵は『激烈な抗日』の主役に据えられているが、同時代人の儒生・黄玹は、イメージとほど遠いその実態を伝えている。

 『忠を抱き、義に因る人は、若干名に過ぎなかった。名を売ろうとする者が導き、禍を楽しむ者が附き、悪人どもが千人、百人と群れを成し、みな“義兵”と称していた』『残忍、凶暴、淫蕩で、略奪し、強盗と異なるところのない者がいた』

 当初彼らは内陸を通行する丸腰の日本人を襲撃していたが、やがて朝鮮の良民に矛先を向けるようになり、犠牲者は時に日本人の10倍にもなったという。(中略)

 蜂起の件数が多かったことをあげて抵抗の激しさを強調する向きもあるが、組織も統一もなかったから、騒擾が各地でおきたというだけである。十数人の討伐隊が鎮圧に向かうと、百人、千人が蜘蛛の子を散らすように逃げるというのが『義兵戦争』の実態だった。

 『暴徒の実力に至りては実に微弱』で『二百乃至三百の団衆に対しても1小隊(注:30人程度)以上の兵力を用いる程の強抗を受けたること無く』というのが日本側の認識・・・現に『義兵戦争』たけなわの1907年春、在韓日本人の不平を尻目に、駐屯2個師団のうちの1つが内地に引きあげている。日本の治安当局は、本州ほどの広さのこの地に、1個師団もおいておけば十分と考えていたのである」(『韓国「反日主義」の起源』草思社刊)。

 

 「いわゆる“義兵”は、正式な軍隊とは違って・・・補給を得ることが難しい。数週間もたてば食糧が断たれてしまう。(中略)食糧が足りなくなって、農村を襲うという行為に出れば、農民から敬遠されるのは、ごく当たり前のことだからだ。

 住民の支持を得られなくなった義兵は、山間部に逃げ込むと、貧しい農村や集落では食糧を供出することができず、義兵が匪賊に変身して、村を略奪した。農山村を義兵の襲撃から守るには、逆に憲兵警察と手を組んで、『討伐隊』を組織して村を守らなければならなかった。それが義兵運動のたどった自己崩壊の運命であった」(『立ち直れない韓国』)。

 

 「一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」。

 この世には負けると分かっていても、戦わなければならない時がある。そのとき問われるのは、「何のために、誰のために」戦って死ぬかである。

 「日本の奴隷になって生きるよりは自由民として死ぬ方がはるかにいいのです」と抗日義兵は、カナダ人記者に語ったという。だが、“王朝的専制と腐敗・貧窮・差別の泥沼”だった李氏朝鮮大韓帝国の下で生きてきた民衆が自由民として生きるということは、現実的には、山賊・匪賊のように生きることを意味していた。

 それとも、高宗を守り(復辟し)、大韓帝国を支持(再興)することなのか? 儒教朱子学)に凝り固まった愚かな両班たちに従って死ぬことなのか?

 そこには夢も希望もないから、朝鮮の民心は“義兵”に同調しなかった。

 そうして、『検定版 高等学校韓国史』が“抗日義兵戦争”と最大限に《潤色》した運動は、日本政府側の死者336人で終息したのである(注:アルジェリア独立戦争でのフランス側軍警の戦死者は28,500人、負傷者は65,000人である)。

 

【参考】

 「檄文を送って八道の多くの村に告げる。・・・わか国母の敵(引用者注:閔妃殺害のこと)を考えるともう歯ぎしりしたが、残酷なことが加わり・・・私たちが両親からもらった髪の毛を、草を刈るように切ってしまう(引用者注:断髪令のこと)とは何という災難だろう。・・・およそ各道の忠義の人士たちはすべて王に育てられた体であり、患難を避けることは死よりさらに苦しく、滅亡を座して待つのは争うのと同じではない」(柳麟錫の義兵檄文・韓国教科書記載)。