断章74

 韓国人は日本に対して強烈な敵対感情を持っている。それは歴史的に受け継いだだけでなく、戦後の捏造・歪曲された歴史教育によってつちかわれたのである。多くの韓国人は李氏朝鮮を“美しい高尚な国”だったと教えられている。 そして非常に不道徳で暴力的な日本帝国主義が入ってきて李氏朝鮮を滅亡させたと考えている。

 これまで見てきたように、韓国の『検定版 高等学校韓国史』は、都合のいいことだけをうまく強調・利用し、隠しようのない不都合なことは曖昧に或いは小さく書くことで、客観的な“史実”にそった教科書であるように見せかけている。

 捏造と歪曲は、史実をもって暴露しなければならない。

 

 「一般に朝鮮の女たちは姑のルールにおとなしく従う。反抗して怒りや醜聞といった事態を招けば、庶民階層の女の場合、厳しく打ちすえられて命令に従わせられる。しかしながら貴族階級では夫が妻を叩くことは慣習により禁じられており、夫にとって救済策は離婚しかないものの、再婚はむずかしいため、ふつう夫は自分の宿命に忍従する。とはいえもしも、妻が夫を苦しめ家内の平穏を壊しているうえ、さらに不貞まで働いたとなると、夫は妻を高官のもとへ連れていくことができる。高官はこの妻を容赦なく打ちすえたあと、従者にあたえてもかまわない」(『朝鮮紀行イザベラ・バード 1897年刊)。

 

 「朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはクズのような民族でその状態は望みなしと考えていた。ところが(ロシア)沿海州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。みずからを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だった。そういった彼らの裕福さや品行の良さは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は(引用者注:本国朝鮮人の特徴である猜疑心、怠惰と慢心、目上への盲従から脱して)徐々にまっとうな人間になりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる」(同書)。

 

 この地の朝鮮人たちが、その後どうなったかを、わたしたちは知っている。

 「1937年、ソ連と日本の国境紛争が悪化すると、スターリン朝鮮人が日本のスパイとなることを恐れて、彼らを極東からソ連内のカザフスタンウズベキスタンへと強制的に移住させ、そこで集団農場を営ませることを決めた。

 幾万もの朝鮮人が、ある日突然、荷物をまとめるよう命じられ、窓のない家畜輸送列車に押し込められた。シベリアの厳しい冬に約6500キロを移動する旅は過酷なものだった。土地を追われた人々はやがて、約束された建材も現金の援助も、決してやってこないことを悟った。昔からずっと米を作って暮らしてきた農民たちにとっては、中央アジアの乾燥した土地や遊牧の文化に順応することも容易ではなかった(引用者注:病気や餓死で多くの人が死んだ)」(文・Ye Ming  訳・北村京子)。

 

 (1895年1月頃、日本がイニシアチブをとった朝鮮の改革に対する)「朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。一般大衆は、本当の意味での愛国心を欠いているとはいえ、国王を聖なる存在と考えており、国王の尊厳が損なわれていることに腹を立てていた。官吏階級は改革で、『搾取』や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈(バッコ)していた。

 このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が2つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。『搾取』と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた」(『朝鮮紀行イザベラ・バード 1897年刊)。

 

 「通常の意味での『交易』は朝鮮中部と北部のおおかたには存在しない。つまり、ある場所とほかの場所とのあいだで産物を交換し合うことも、そこに住んでいる商人が移出や移入を行うこともなく、供給が地元の需要を上回る産業はないのである。このような状態は朝鮮南部、とくに全羅道でもある程度見られる。平壌をのぞいては、わたしの旅した全域を通して『交易』は存在しない。

 このような状況をつくった原因は、朝鮮馬1頭で10ポンドに相当する現金しか運べないほど貨幣の価値が低下していること、“清”西部ですら銀行施設があって商取引が簡便になっているのに、ここにはその施設がまったくないこと、概して相手を信用しないこと、皮革業に対する偏見、すなわち階級による偏見があること、一般に収入が不安定で、まったくもって信じられないほど労働と収入が結びつかないこと、そして実質的に独占しているギルドがおびただしくあることである」(同書)。

 

【参考】

 「両班でなければ仕官できない閉鎖性は、いつしか『自称』両班を急増させていた。17世紀までは総人口のせいぜい7%だったものが、19世紀後半期には49%にもなっていた。人口の半分が『支配階級』の国家なぞ前代未聞である。ただし、両班=任官ではなく、多くは仕官浪人であった。両班自身は他の生業に就いてはならず、それがためにまた任官をめぐっての中央までタテにつながる党争を激化させていたのだ。」

 「軍事力については、国際安定と国内での文官優越主義は、武官や軍隊の軽視を極端にまで押し進め、日本を含めた近代欧米諸国に出会ったときには、最早、自力で国家防衛できる軍隊は存在しなかったと言うに等しい状態だった。それが『宗主国』清に、またある場合には日本やロシアに庇護や後見を求めなければならなかった理由である」(「朝鮮史」萬 遜樹)。

断章73

 李氏朝鮮末期の朝鮮を旅したイザベラ・バード(イギリス人女性旅行作家)は、『朝鮮紀行』で、漢江流域などの朝鮮の鮮やかな自然、それとコントラストをなす朝鮮の政治・社会を描いている。

 

 序章にいう。「(1876年の)開国の10年前に朝鮮国王は宗主国である清の皇帝に対し『教育ある者は孔子と文王の教えを守り実践している』と書き送っているが、このことこそ朝鮮を正しく評価するための鍵である。

 政治、法律、教育、礼儀、社交、道徳における清の影響は大きい。これらすべての面において朝鮮はその強力な隣国の貧弱な反映にすぎない」。

 

 首都ソウルは、「商業という概念が行商人の商いに限られているこの国(引用者注:なぜなら、儒教朱子学の徹底は商業を抑圧するから)の、商業の中心地でもある。全国の商店がソウルから在庫を仕入れる。条約港から船積みされない製品はすべてソウルに集中する。ソウルは商品の一部品目を実質的に独占している大手商人ギルドの中心地であり、国内輸送を行っているポーター業ギルドの中心地である。地方行政官はソウルに別宅を持ち、一年の大半にわたり任地での業務を部下にまかせる。地主は自分の土地で地代を得てそこに住む人々から『搾り取る』が、不在地主で首都に暮らしている」。

 

 両班(朝鮮貴族)についての記述がある。

 「朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在がある。両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルすらである。両班の学生は書斎から学校に行くのに自分の本すら持たない。慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、おおぜいのお供をかき集められるだけかき集めて引き連れていくことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。・・・

 非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目のもとに無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男はにせの負債をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで毎朝、笞(ムチ)で打たれる。あるいは捕えられ、金が用意されるまで両班の家に食うや食わずで事実上監禁される。借金という名目で取り立てを装うとはまったくあっぱれな貴族であるが、しかし元金も利息も貸し主にはもどってこない。貴族は家や田畑を買う場合、その代価を支払わずにすませるのが一般的で、貴族に支払いを強制する高官などひとりもいないのである」。

 

 またハングルについて、こう記録している。

 「朝鮮の言語は2言語が入り混じっている。知識階級は会話のなかに漢語を極力まじえ、いささかでも重要な文書は漢語で記される。とはいえそれは1000年も昔の古い漢語であって、現在清で話されている言語とは発音がまるで異なっている。朝鮮文字である諺文(ハングル)は、教養とは漢籍から得られるもののみとする知識層から、まったく蔑視されている」。

 

【参考】

 「現在の世界では、漢字を使っているのは、われわれ日本人と中国人だけになってしまった。この事実は、あながち漢字を廃止してローマ字やハングルに置き換えたベトナム北朝鮮、韓国に比べて、日本や中国が遅れていることを意味しはしない。漢字を廃止した国々には、それぞれ政治的なお家の事情があったので、たとえばベトナムでは、国語そのものが中国語に非常に近い性質を持っているので、漢字の使用を続けたのでは、中国の政治・文化の影響が止めどなく流れ込んで、民族の独立さえ保てないからである。

 韓半島ともなると、もっと事情は複雑で、漢字は中国の影響ばかりでなく、日本からの影響をも助長する傾向を持つ。といってローマ字ではアメリカ文化に従属することになるし、ロシア文字ではソ連の脅威がなお恐ろしい。だから民族の独立のためには、38度線の北でも南でも、そのどれでもないハングル一本槍に変わったわけである」(岡田 英弘 1977年)。

 

【参考】

 「韓国を支配しているのは、・・・両班(高麗、李氏朝鮮で文武の官僚に任ぜられた特権的身分)の精神である。両班は、朱子学を奉じ、科挙(最高級公務員試験)に合格すると、高級官僚になる。朝鮮では、科挙を受験することができるのは、両班の子弟にかぎられていた。中国では、科挙の受験資格は、すべての人に平等に与えられていた。科挙をまた、登竜門ともいう。科挙に合格すると、そうでない人とは、竜と鯉ほどもちがってくる。それほどの科挙の受験資格が両班だけに限定されたのだから、両班は、とびぬけた特権層を形成することになった。(中略)

 たいがいの両班は、土地も支配していた。土地貴族でもあった。

 この点、中国とはちがって、ヨーロッパや日本と似ていたといえなくもない。

 ヨーロッパの貴族は、土地貴族である。国によって、土地貴族としてのありかたはいろいろとちがったが、土地貴族であることにかわりはない。そのうえ、ヨーロッパの貴族は軍事貴族であった。時代が近代に近づくにつれて、貴族の全員が軍人になったわけではないが、貴族の基調が軍人であったことにかわりはない。そのうえ、この軍人貴族は、政治権力を左右してきた。土地を支配する軍事貴族が権力を左右する。この点、幕藩体制の日本と似ている。朝鮮の両班は、軍事貴族ではなく、いわば、文民貴族であった」(小室 直樹)。

 

【参考】

 「李朝時代には、両班たる者は汗を流してはならないということが、万人の上に立つ彼らが確固として守るべき重要な一つの規範としてありました。これは単なる心得ではなく王族をふくめて厳格に守るべき制度のようなものですから、下の者としても両班にはなんとしても汗を流させないようにと大変な注意をはらったものです。・・・

 李氏朝鮮最後の国王、高宗のときのことです。あの頃はヨーロッパから宣教師や外交官がたくさん入って来ていました。あるとき高宗がアメリカ公使館を訪ねると、館庭で公使館員たちがテニスをしていました。それを見た高宗は配下の者に、『彼らはなぜあんなことをしてわざわざ自分で汗を流しているのか、どうして奴隷にやらせないのか』と言ったという有名な話があります」(『困った隣人 韓国の急所』)。

断章72

 韓国の『検定版 高等学校韓国史』では、「 Ⅱ 高麗と朝鮮の成立と発展」の「まとめ」として“重要内容”が列記してある。「1.高麗は後三国を統一し、渤海遺民を受け入れて民族を再統一した。その後王権を強化して体制を整備し、儒教理念に立脚した中央集権国家として発展した。2.高麗は豪族が中央貴族化して門閥貴族社会として発展した。武臣政権が樹立した後、モンゴルの侵略と干渉を受けて権門勢族が新しい支配勢力になり、新進士大夫が成長し始めた。3.高麗は宋と親善関係を維持してさまざまな交流をしたが、契丹やモンゴルなど北方民族とは絶えず抗争を繰り広げた。開京遷都後は元との交流が活発になった。4.朝鮮を建国した新進士大夫はさまざまな制度を整備し、儒教中心の中央集権体制を確立した。15世紀後半に成長した士林は士禍にも負けず、政権を掌握して朋党政治を展開した。5.朝鮮前期にはハングルが創製され、さまざまな器具が発明されるなど民族文化が大きく発展した。16世紀には性理学、書院や郷約など、士林文化が発達した。6.朝鮮は事大交隣を外交の基本政策とした。しかし、任辰倭乱と丙子胡乱を経て国土全体が荒れ果て、国家財政が苦しくなった」。

 これだけである。つまり、「素晴らしい朝鮮民族は、高麗も朝鮮も自立して立派にやっていたのだが、日本とモンゴルがブチ壊してしまった」と、言いたいのだ。

 

 後世についても、同じ構図で語られる。

 「『優秀な韓国はもっと豊かになれるはずだったのに、日帝の搾取のせいでそれが遅れ』『精神的主柱であるべき名前や文字、国王を日帝に奪われた』『韓国人は仲間内で足を引っ張り合うことなく、団結して日本帝国主義に勝った』

 このように何でも日本のせいにすれば、複雑な国内事情や党派争いを暴露する必要もなく、民衆を発憤・感動させやすい。おまけに日本には反日日本人・進歩的文化人なる厄介な存在があり、自ら団結して反日・反国家教育を押し進めてきた。こうして国外と国内で反日が手を結び合うという奇怪な現象に至っている」(『立ち直れない韓国』黄 文雄)。

 

 一方わたしたちは、「李朝の社会がどれほど、おぞましいものであったのか、李朝時代がどのような歴史的な経緯によってもたらされたものか、ということを知らずには、今日の韓国人の心理や、その行動様式を理解することができない。

 北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国と称しているが、李氏朝鮮がまさに名前だけ変えて存続しているといえる。文字どおりの虐政が行われており、民主とも、人民とも、まったく無縁である。李朝という下敷きがなければ、北朝鮮のような体制は出現しえなかったろう。

 韓国は・・・国内における民主的覚醒が進んでいるものの、青瓦台として知られる大統領官邸への権力の過度の集中や、法を軽視した人治主義や、収賄構造が深い根を張っているのは、韓国民が李朝の呪いから抜け出すことができないからである。

 李朝では、権力がすべてだった。権力の座にすわった者が、暴虐の限りを尽くした。法は権力者によって、好き勝手に用いられた。権力の奪い合いは、凄惨をきわめた。民衆はただ搾取の対象となった。

 権力者は美辞麗句を弄(モテアソ)んだが、人命も、道徳も、顧みることがなかった。民衆は苛酷な社会のなかで生き延びるために、偽ることが日常の習い性となった」(「朝鮮史」萬 遜樹)と見ている。史実は、これからさらに明らかにされる。

 

 まず確認しておくべきは、朱子学の弊害である。「(李朝朱子学の絶対性と硬直化は、儒教経典の一字一句の解釈にこだわり、たまに我田引水してこじつけ、世の中をすべて正邪善悪の価値観で測り、白か黒かをはっきりさせようとすることだけにエネルギーを費やしたのだ」(『立ち直れない韓国』)。

 例えば、「一人の王妃が死んだことについて、服喪を一年間にするか、三年間にするか、天下国家を論ずる大儒・名儒といった儒学者の重鎮が、飽きもせずに延々と十数年の歳月をかけ、こうすべきであるとか、ああすべきであるとかを命をかけて闘い、最終的には、国王の鶴の一声で決着すると、敗者に待っていたものは、刑場行きと流刑ばかりであった。たとえば、東人党首、李潑は、捕らえられ拷問死の後、弟と老母、息子たちは杖死、婿、孫たちは圧死、奴婢(奴隷)全員が厳罰に処せられた」(同書)のである。

 それだけではない。「一旦悪人と断罪されれば死んだ後でも、非難を免れることを許さない。全ての人間の善悪を明確にし、当人だけでなく、子孫にも永遠にその結果を及ぼすのが中国・朝鮮のような本場の儒教の考え方である。それと同時に、『水に落ちた犬を叩く』という言葉が示すように、一旦権力の座から落ちたものは、過去の罪が容赦なく暴かれ、とことん弾劾されるのが朝鮮の伝統でもある(引用者注:だから「戦犯日本は永遠に謝罪せよ」となる)。

 最近の例で言えば、韓国併合時に日本政府に協力した李完用は戦後、親日反民族の元凶としてやり玉に挙がっただけでなく、死亡後80年たった2005年に親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法で、子孫の土地が国家に没収された」(『本当に悲惨な朝鮮史』)。

 

 「韓国の憲法第13条は、次のように規定しています。

  1. すべての国民は、行為時の法律により犯罪を構成しない行為により訴追されず、同一犯罪に対して重ねて処罰されない。
  2. すべての国民は、遡及立法により参政権の制限を受け、又は財産権を剥奪されない。
  3. すべての国民は、自己の行為ではない親族の行為により、不利益な処遇を受けない。

 ところが、憲法裁判所はこの憲法の規定に反して作られた『親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法』を合憲とする決定(2011年3月31日)を出しています。」

 「つまり韓国には、『国法』に優先する“国民情緒法”と称すべき超越的な法が事実上存在するということです。(中略)これは簡単に言えば、『国民情緒に合致するものなら、司法はあらゆる実定法に拘束されない判断を下せる』という、民主国家にあるまじき超越的な法規の考えが、韓国には厳然たる不文律としてあるのです。(中略)韓国の歴代民主政権は、明らかに『国民主権』の意味をはき違えているのです」(『北朝鮮化する韓国』)。

断章71

 「14世紀になると、社会不安や王室の内紛によって元の支配が揺らいできた。・・・朱元璋が集慶(現・南京)で政権を立て、1368年に大都を陥落させて元をモンゴル高原に追いやった。同年、朱元璋は南京において即位し、明の初代皇帝となった。・・・明が建国するや、即位直後から元の支配から離脱する動きを示していた(高麗の)共愍王はただちに外交使節を送り、翌年、元との関係を断絶して明に朝貢し、冊封を受けることにした。しかし、共愍王は1374年に親元勢力に暗殺され、辛禑が即位して元と明に両属することになった」(『韓国朝鮮の歴史』)。

 このとき高麗で起きていたことは、「元」と「明」のどちらに事(ツカ)えるのかを争う「事大主義」党争である。現状維持でよしとする親「元」派・仏教派の旧貴族支配層と、現状打破を求める親「明」派・儒教派の新興士大夫層との対立である(韓国の『検定版 高等学校韓国史』から、できる限り取り除かれ、あるいは薄められているのが、どちらに事(ツカ)えるのかを争った「事大主義」党争である。史実を直視できないのだ)。

 

 「武人・李成桂は、1388年、明に対抗するため遼東半島に向かうはずであった遠征軍を引き返し、クーデターを起こして政権を掌握、1389年に恭譲王を擁立すると親『明』派・儒教派の新興士大夫層の支持を受けて体制を固め、1392年に恭譲王から禅譲される形で王位につき、朝鮮王朝(李氏朝鮮)を興した。1394年、旧高麗勢力の叛乱を懸念した李成桂は、恭譲王はじめ主だった高麗王族を殺害した上で、王姓を名乗る者の身の安全を保証して一ヶ所に集め、移住先へ移動させるとして船に乗せ、それを沈めて全員を溺死させた」(Wiki)。

 

 「李成桂の新王朝は、激しい争いをともに戦ってきた子飼いの部下たちと、鄭道伝(チョン・ドジョン)をはじめとする儒学を身につけた士大夫官僚たちという、『武』と『文』の連合的性格をもっていた。新王朝はその中で、文=学問を国家運営の基軸にすえる政策をとっていった。李成桂の幕僚として新王朝設立に抜群の功績をあげた鄭道伝は、国家の要職を独占し、その権勢は他にならびのないものになった」(『韓国朝鮮の歴史』)。

 韓国海軍の駆逐艦「クァンゲトデワン(広開土大王)」による日本哨戒機レーダー照射のときに一緒にいた韓国海警察庁の警備救難艦「5001 サンボンギョ(三峰号)」の、“サンボン”は、この鄭道伝の‟号”である。

 

 「しかし、このような功臣たちの政治には不満をもつ者が多く、それが次期王位をめぐる王室の内紛と結びついた。太祖(李成桂)には先妻に6人、後妻に2人のあわせて8人の男子がいたが、彼は末子の芳碩をつぎの国王にするつもりでいた。父王の創業に大きな功績があった五男の芳遠は、1398年、芳碩の教育にあたっていた鄭道伝が、先妻の子である自分たちを除く陰謀を企てたとして殺害、異腹の末の2人の弟七男芳蕃と芳碩までも殺した」(『朝鮮史』)のである。

 

 李氏朝鮮は、中国の諸制度を引き写して諸制度を整備したが、核心は、儒教とりわけ朱子の学(朱子学・性理学)による国家統治から社会習俗に至るまでの徹底的教化である。その徹底性は、まるでカルトである。しかも、朝鮮では、つねに血まみれの「党争」がつきものだった。

 

 「権威と権力の一致をめざした政権のなすことは、いかにも暴力的であった。1474年には明国の法律を用いて、火葬者は百叩き、埋葬しないものは墓暴きと見なして斬り殺すことにした。それでも霊力の宿る骨がほしくて、骨を掘り起こしてかますに隠している民衆がいた。これは一族島送りが討議された。この間、従来の葬儀や招魂を司っていたシャーマンや僧侶は弾圧され、ソウル所ばらいとなり、放逐されて山野を彷徨した。19世紀末に至るまで、朝鮮では僧侶は賤民扱いでソウルに入ることも許されなかった」「王と儒臣たちの儒教教化は、ヨーロッパ中世の異端審問と教理の実践を想起させるほど過激なものであった」(『朝鮮民族を読み解く』)。

 

 本場である「中国で漢王朝以来、政治権力を握った官吏によって信奉された儒教は、明白な不平等、したがってまた自由にふるまう大きな富の拒否、農業の振興、貨幣・信用制度・交易の国家管理を要素として含んでいた。(中略)1430年代以降、国家権力と市場経済(官吏と商人)の緊張にみちた協調と反発のなかで、地主と儒教的官吏からなる保守的な党派が勝者となった。商業と資本蓄積に対する消えることのない不信が優位を占めた」(ユルゲン・コッカ)のであるから、狭い半島国家で大陸を真似、しかも徹底すれば、商業の発展を抑圧することになった。また、文=学問を国家運営の基軸にすえる政策なのであるから、徐々に軍事力が衰退したのである。

 

 そして、「仏教が敗退し、武官が敗退した後は、儒教文官同士の党争である。殺し合いの政争は、国家整備が終わった15世紀末から開始された。士林や儒林と呼ばれた彼らは、初めは『東人』と『西人』に二分し、その後小分裂を繰り返し、王朝の滅亡まで党争を続けた。

 党争の本格化は16世紀後半以降である。分派を挙げれば、南人、北人、大北、小北、骨北、功西、清西、少西、老西、……。また、各派が信奉する名儒を祀る『書院』という儒学所が各地に建てられ、これを介した荘園が徐々に拡大していった」(「朝鮮史」萬 遜樹)。

 

 1592年、日本軍が大軍で侵攻してきた。任辰倭乱(ジンシンワラン)(注:文禄の役)である。加藤清正の軍は領土の最東北端まで侵入し、王朝存亡の危機に立たされた李氏朝鮮宗主国・明に援軍を要請した。その後、戦況は停滞し、和議の交渉が継続したが、1597年に日本軍はふたたび大軍を派遣して攻勢に出た。丁酉再乱(テイユウサイラン)(注:慶長の役)である。日本軍は、翌年8月の豊臣秀吉の病死を機に撤退を開始した。

 

 日本軍の朝鮮侵攻に対応した明の軍事力が弱体化した隙に、今の中国東北地方にあたる地域にいた女真族の中の愛新覚羅氏出身の「ヌルハチは、1616年、『金国』の再興を宣言し明から独立した。これを後金という。1619年にヌルハチはサルフの戦いで明の大軍を撃破し、勝利に乗じて地域の中心である瀋陽を占領してここに遷都した。・・・ヌルハチの息子ホンタイジは、1627年、・・・朝鮮に遠征軍を派遣し屈服させた。これを朝鮮では丁卯胡乱(テイボウコラン)と呼ぶ。朝鮮にとって女真人は胡(野蛮人)だという意識である。この時は後金を兄とし朝鮮を弟とする盟約を結び、親明政策を破棄し、王族を人質として差し出すことなどを条件として後金軍は撤退した。・・・1636年、ホンタイジは国号を『清』と改め、満州族・漢族・蒙古族に君臨する皇帝を名乗り、朝鮮に臣従するよう要求してきた。朝鮮がこれを黙殺するやホンタイジは10万の軍を率いて朝鮮に攻め込み、漢城の南にある南漢城山城に籠城した朝鮮国王仁祖を捕らえて服属を誓わせた。1637年、仁祖は漢城南郊を流れる漢江の渡し場三田渡で臣従を誓う三跪九叩頭の礼によってホンタイジに許しを乞うた。三田渡には、朝鮮の手によって、『大清皇帝功徳碑』が建てられ、ホンタイジの徳を称えて服従することを誓わせられた。これを朝鮮では丙子胡乱(ヘイシコラン)と言う。服従の条件として提示されたのは、明皇帝の冊封を破棄すること、国王の長子と次子や大臣の子を人質として差し出すこと、明に遠征する際には援軍を出すこと、毎年黄金100両・白銀1000両など大枚の朝貢を送ることなど、朝鮮にとって過酷なものだったがすべて承諾せざるを得なかった。清皇帝に対しては朝貢などの名目で使節を送り、朝鮮国王は清皇帝の冊封を受けてその臣下というかたちをとることになった。この関係は1895年、日清戦争終結のために日本と清との間で締結された下関条約で、朝鮮は『自主独立』の国であると定められるまで、続けられた」(『韓国朝鮮の歴史』)。

 

 まさしく、「朝鮮が中国の忠実な臣民であり続けてきたことは間違いない事実であり、『誰にも支配されない誇り高く優秀な民族』は完全な虚構であるのは言うまでもない。・・・15世紀に独自文字であるハングルが発明された時も、両班(特権階級)はこぞって使用に反対している。『自分たちには漢字がある、独自の文字を持つのは未開人だけだ』というのがその主張だった」

 「韓国の国旗である大極旗は中国の易経がもとだし、『金日成』『金大中』のような人名も漢姓に基づいている。どう否定しようが、事大の伝統はそれほど深く半島文化に根付いており、精神構造そのものともいえる」(『立ち直れない韓国』)。

断章70

 「日本人は高麗に関してほとんど知らない」「一般的に、日本で朝鮮に関する議論や知識といえば極端なまでに近年100年間、つまり韓国併合以降に偏(カタヨ)っている。・・・(しかし)歴史年表をひもとけば分かるが、高麗は過去1000年間の朝鮮の歴史のほぼ半分を占める」「現代の朝鮮に李朝の影響が強いのはもちろんだが、その根源は高麗にある」。

 「信じがたいかもしれないが、21世紀の朝鮮を理解するには、朝鮮の歴史をタイムトラベルし1000年前に戻り、かつての高麗と李朝の人々の言動をつぶさに観察して彼らの行動の根源にある価値観と倫理観を正しくつかむことだ」「そうすることによって初めて現代の南北朝鮮(韓国・北朝鮮)の状況を正しく解釈することが可能になると私は考えている」(『本当に悲惨な朝鮮史』 麻生川 静男)。

 

 「高麗の実態は現在の韓国の教科書や朝鮮の通史に描かれているレベルを遙かに超えた、言語を絶する悲惨なものであった。それについて、正しい情報を与えようとしない歴史書は『不作為の過失』というより、『虚偽記載』というべきであろうと私は考える。このような情報歪曲は、日本人だけでなく韓国人にとっても悲劇だと思う。つまり、『高麗史』『高麗史節要』ともウェブで全文が公開されているのであるから、遅かれ早かれ高麗の実態が明らかになってくるのは避けることができない。そうなると、いままでひた隠しにしていた高麗の恥部が明らかになり、従来の出版物の記述の信憑性が疑われることになるだろう。(中略)

 皆で口裏を合わせて、高麗社会にあったおぞましい現実は一切なかったことにしようと画策しているのではないか、と勘ぐりたくもなる」(同書)。

 「高麗史節要の至る所に悖乱(ハイラン)、欺瞞、強奪、虐殺、寇掠の数々が嫌というほど書かれている。よくぞ、こんな世界に暮らしていたものだ、と他人事ながら憐憫(レンビン)にたえない」(同書)。

 

 実質的には1221年に始まったモンゴルの侵入、1260年以降のモンゴルによる実質的統治で、高麗は筆舌に尽くしがたい悲惨な目にあわされた。例えば、1231年の講和で、モンゴルは「莫大な戦利品を奪っていった。その一部を挙げると、馬2万頭、紫蘭1万匹、テンの皮1万枚、黄金70斤、銀1300斤、など。これらの金品の他に数千人の少年少女(童男女、数千人)を連れ去った」。

 「『高麗史』『高麗史節要』の両方に1333年7月から1335年4月までの記録が全く見当たらない。(引用者注:著者の推測では、)1335年(27代忠粛王)のときに、高麗から元の朝廷に使節を出して、童女を探す――つまり、強制的な人さらい――のを止めてくれと嘆願したとの記事が見える。(中略)つまり、記事内容があまりにも惨め過ぎて、李朝の史官たちが書き写すに忍びなかったので、ばっさり削除したのではないかと想像される」(『本当に悲惨な朝鮮史』)。

 “従軍慰安婦”問題とは、当時の貢女や童女さらいになぞらえて、あたかも「江戸のカタキを長崎で討つ」ごとく、“モンゴルの恨みを日本で晴らす”プロパガンダなのではないだろうか。

 

 「1271年初頭に元宗は、モンゴルの皇女(フビライの娘)を自分の息子の嫁に欲しいと願い出た(請婚)。10月には使者がモンゴルから戻り、フビライの許可が下りたことを知らせる。世子(後の忠烈王)がモンゴルから戻ってきたが、すっかりモンゴル風の服装と髪型(弁髪)になっていた」(同書)。

 以後、31代恭愍王に至るまで、歴代の国王は元王室の王女と結婚した。

 「モンゴルはこれまでの契丹女真と異なり、直接的な内政干渉をした。国内には多くのモンゴル軍人が駐留し、反発感情が生まれた。(中略)一方、『高麗史』には忠烈王がモンゴルに日本侵攻を働きかけたとの記述がある。忠烈王が自身の政治基盤強化のため、モンゴル軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる」(Wiki)。

 「また胡服弁髪の令(1278年)を出したほか、一切の律令制定と発布はモンゴルの権限とされた。以降の王はモンゴルの宮廷で育ち、忠宣王は『益知礼普花』(イジリブカ)、忠粛王は『阿剌訥失里』(アラトトシリ)、忠恵王は『普塔失里』(ブダシリ)と、モンゴル風の名も持っていた。このような中で高麗貴族の間ではモンゴル文化が流行した」(同)。

 だが、韓国の『検定版 高等学校韓国史』には、あっさり「モンゴルと活発に文化を交流する」とあるだけである(笑い)。

 

 「宦官とは、男性の機能を失くした男なので、誰も好んでなろうとはしないであろう。しかし、元の支配下にあった高麗では、元の宮廷からの要求に応えて数多くの宦官を元に送り出していた。その中にはかなりの大官にまで出世する人もいた。(中略)もともと卑賎の身分であった者が宦官となり元で出世したあと、本国に高級官僚として戻ってくると、高麗王をもしのぐ強大な権力をふるった。高麗の貧民はその様子を見て、万一の僥倖を恃んで自分の子供や弟を無理やり去勢し、宦官にした。それだけでなく、自ら進んで宦官になる者もいたほどだ。このような宦官の多くは元の国力や元の皇帝の力をバックにして、横暴にふるまい、高麗の人々を一層苦しめた」(『本当に悲惨な朝鮮史』)。

 

 高麗も末期になると、まさに末世である。『高麗史節要 巻33』によれば、「廉興邦の母方の従兄である李成林が侍中になった。ワルどもが徒党を組み、朝廷の要職を独占した。朝廷がことごとく李成林一派の私有物になったので、自分たちの都合のよいような政治を行い、官職や爵位を売ってぼろ儲けした。他人の持ち物の田畑・山林・広野だけでなく、奴婢までも勝手に奪い取った。その上、何百人、時には何千人もの徒党を組んで、王室の所有であろうと、個人の所有であろうとお構いなしにすべて取り上げた。それで、脱走した奴婢や逃散した農民などが官憲の追手から逃れるため集まってきた。知事や官吏たちもその横暴に全く対抗できなかった。民が逃げてしまったので、政府も地主たちも収入が途絶えてしまった」(『本当に悲惨な朝鮮史』)。

 

 そして、相変わらずの支配勢力内での「党争」である。

 韓国ジョークに「韓国人が3人寄ると7つの派閥ができる」があるそうだが、それだけではない。勝った方が、負けた方を完全に否定する血みどろの闘いなのである。「『高麗史節要 巻33』 誅殺した者たちの男の子孫は、ゆりかごの赤ん坊まで含めてみな川に放り込んで殺した。追及を免れた者はほとんどいなかった。また彼らの妻や娘たち、30人は官婢の身分に落とした」(同書)。

 

 「現代の韓国社会全体に巣くう不平等感、他人不信感は(少なくとも)高麗の時代から連綿と続く伝統で、持つ者が持たざる者を陰に陽に虐げる結果に他ならないといえる。ミクロ的には、ナッツリターン事件はその典型だし、マクロ的には10大財閥が韓国の企業活動全体の7割を占め、その圧倒的な支配力を背景にして、下請けの利益圧迫を図っている構図がある」(同書)。

断章69

 新羅はやがて衰退に向かい、900年には後百済が、901年には後高句麗が建国して、後三国時代と称されるようになるが、936年には王建(ワンゴン・高麗太祖)による後三国の統一に至る。この高麗は次第に北方に勢力を拡大し、はじめて朝鮮半島のほぼ全域を支配するようになった。この王朝は34代、約500年にわたって存続する。

 

 「高麗が国家を建設する時、唐・宋の官僚制度を参考にしながら、文臣(文班)と武臣(武班)の2つの班からなる官僚制度を採用した。2の事を両と言う字でも表すためこの2つの班を会わせて両班(ヤンバン)と呼んだ。・・・文班は、958年から科挙制度を採用し、科挙の合格者を官吏として登用する制度を取った。しかし、五品以上の上級文臣の子は自動的に官吏になれる『蔭叙』が行われ、当初から上級官僚の貴族化を促していた」(Wiki)。

 「科挙の根幹をなしたのが、学問であり、なかんずく儒学を中心とした中国古典学である。政府(王朝)は、開京に国子監を開設して最高学府とし、儒学を正統的な学問・思想とした」。

 「高麗時代に作成された古代三国の正史『三国史記』(1145年完成)には、『城主』、『将軍』などという名称で多くの地方豪族たちが姿を現す。新羅盛期に『村主』として地域支配していた人々などが、王朝衰退期に軍事勢力として台頭してきた・・・高麗王朝成立に荷担した者も多かった。・・・安東権氏一族の始祖・権幸(クォンヘン)は、高麗王朝に対する功績から国王より権という姓、安東という本貫(ホンガン)の賜与を受けた。・・・住民たちの基礎的な地域単位である『邑』(ユウ)を基盤とする多くの豪族たちは、王朝から本拠地を本貫として認められ、また中国風の姓を名乗ることを許された。邑はさまざまな制度的改変をこうむったものの、他邑に吸収されたり、離合集散したとしても、高麗初期に本貫と定められたものの多くは現代にまで続いている」(『韓国朝鮮の歴史』放送大学刊)。

 「太祖王建は10ヵ条の遺訓を残したが、その8番目に風水説に基づき、現在の全羅道地域は地形が『背逆』の相にあり人民の心もまたそうだから、そこからは人材を登用してはならない」とあった。これは、高麗統一時に、後百済が最後まで抵抗した記憶もあったことだろう。ともあれ、旧百済人末裔たちは以後、地域差別を受け続け、中央官職から排除された。朝鮮史を貫く農民暴動も、実はこの全羅道地域を中心に起こることが多く、また最も強盛であった。その『伝統』は、日清戦争につながった東学農民戦争までに至る。

 それは、当地出身の金大中氏が大統領に就任するまで続いたと言ってもよい。この地域間の感情対立は、選挙時の各候補者への支持地域を見れば一目瞭然である。なお、全羅道差別とは別に、東北部の咸鏡道への地域差別もあった。両地域への差別は李朝にこそ本格化する」(「朝鮮史」萬 遜樹)。

 

 王朝成立から2世紀。門閥貴族間の内紛が続いた。『検定版 高等学校韓国史』の「2.支配勢力の交替」には、「特定の一族が権力を独占する現象に対する反省の機運も起こった。このような民心を利用して西京出身の鄭知常や妙清らは西京遷都を積極的に押しすすめ、西京に大花宮をつくって皇帝と称し金国を討伐しようと主張した。一方金富軾が中心になった開京勢力は、西京遷都と金国征伐に反対した」とある。

 門閥貴族間の内紛の文脈で語られた反乱にもかかわらず、本項のまとめでは、「丹斎申采浩が妙清の西京遷都運動を評価した文章を読んで“探求活動”をしてみよう」と言って、また申采浩の文章が出てくる。

 「妙清の遷都運動は・・・郎家および仏教対儒教の戦いであり、国風派対漢学派の戦いであり、独立党対事大党の戦いであり、進取思想対保守思想の戦いでもあったが、妙清は前者の代表で金富軾は後者の代表だった。妙清の遷都運動で妙清らが敗れ金富軾が勝ったことで、朝鮮史が事大的・保守的・束縛的思想の儒教思想に征服されてしまった。もし金富軾が敗れ妙清が勝ったならば朝鮮史は独立的・進取的に進展したのだから、これがどうして一千年来第一の事件と言わずにいられようか」。

 新羅のときと同様に唐突にまた申采浩の文章が出てきたのは、妙清たちが、「高麗の国王号は皇帝に改め(称帝)、独自の年号を建てれば(建元)、高麗は天下を統一し、周辺諸国を臣属させ、金国すら隷属できると主張した。西京遷都派は妙清を盟主として陰陽風水思想を信奉し、国際自立の政治主張を掲げて結集した」(『朝鮮史山川出版社刊)からというので、新羅のときと同様に“外勢”批判(国際自立の政治主張)に誘導したいからではないだろうか。

 

 だが、「文化が花開き、世界に開かれていた高麗」(『検定版 高等学校韓国史』)との自賛にもかかわらず、高麗建国後には「(中国)五代の各国から『高麗国王』の冊封を受け、宋が建国されると、963年にはその冊封を受けた。その一方で、993年に契丹の大軍が侵入してくると、翌年、宋との外交関係を断絶して契丹朝貢することにし、996年には国王が契丹皇帝の冊封を受けることにした。・・・高麗が支配から離脱する動きをみせると、契丹(遼)はふたたび1010年から翌年にかけて大軍を侵入させ、首都開京を破壊しつくして屈服させ、高麗国王が契丹皇帝に朝貢することを約させた」(『韓国朝鮮の歴史』)。また、「高麗は遼の崩壊と宋の南遷をみきわめて、1128年、金の冊封を受けて臣属し、金の『冊封体制』に参入した」(『朝鮮史』)のが、現実である。

 

 『検定版 高等学校韓国史』は、外国に対する新羅・高麗の朝貢・臣属・『冊封体制』という現実からできるだけ目をそむけようとしている。教科書の著者たちが官製民族主義者だから、一貫して独立を保った朝鮮民族ということにしたいのである。

 

 「ある者はこの世の明るい面だけを見ようとして片方の目を閉じたまま人生を送っていくかもしれないが、そんな人たちの抱く人生の理解は明るく美しいものであっても、けっして正しいものではありえない」(アーソン・グレブスト)。

 歴史もまた同じである。

断章68

 「韓国の日本に対するエキセントリックな感情や挑発は、日本の一部の知識人と称する者たちを含め、日韓併合という歴史的事件を錦旗に掲げて正当化されがちである。しかし、それは単なるごまかしに過ぎない。韓国が国際世論の常識をはるかに踏み越えた姿勢を取る理由は、日本とはまったく異なる朝鮮の歴史から形づくられた、日本人には理解しがたい独自の価値観にある」(『韓国人に不都合な半島の歴史』)。

 韓国独自の“価値観”(そのメンタリティとビヘイビア。精神構造と行動様式)を知るためには、“檀君王倹”に始まるという韓国(朝鮮)2000年の歴史をひもとく必要がある。

 

 韓国歴史ドラマには、「三韓統一」に関係するものがある(『善徳女王』など)。

 『検定版 高等学校韓国史』では、「中国を統一した隋や唐は勢力拡大を図り、高句麗を攻撃した。高句麗が隋・唐の侵略を食い止める間、百済新羅をしばしば攻撃した。新羅高句麗と同盟を試みたが失敗し、その後唐と連合軍を結成して百済を攻撃した。政治秩序の乱れと支配層の享楽によって国家的一体感を失っていた百済は、結局洒沘城が陥落すると滅亡してしまった。新羅と唐は引き続き高句麗を攻撃した。高句麗は度重なる戦争で国力を激しく消耗し、淵蓋蘇文が死んだ後、支配層の間に権力争奪戦が起こり新羅と唐の連合軍を食い止められなかった。結局平壌城が陥落して、高句麗は滅亡した。・・・(その後)新羅は唐の勢力を追い出して三国統一を成し遂げた」。

 普通なら、ここでさしあたりメデタシメデタシのはずだが、『検定版 高等学校韓国史』には、まったく唐突に、「申采浩(シン・チェホン)が三国統一について書いた文章がある。これについて“探求活動”をしてみよう」と出てくる。

 それは、「他の一族を引き入れて同じ一族を滅亡させるのは、盗賊を呼び入れて兄弟を殺すのと同じだ。これは幼い子どもでもわかることだ。悲しい!わが国の歴史家よ!これを理解する者が大変少ない。前にも話したように、新羅の歴代王が常に外勢の助けを得て高句麗百済を滅亡させようとしたが、心はあってもことを起せず、ことを起しても成し遂げられなかったのだから、これは殺人未遂に匹敵することだ。太宗大王・金春秋がこのことのために心と力を尽くし、手腕を尽くしてついにこれを成し遂げた後には得意満面だった。半分ほどでも血の気を持った者ならばこれを罵り叱るのが正しく、排斥するのが正しいのに、今日その本末を問い詰めもせず、ただ『わが国統一の糸口をつかんだ王だ』という。彼がわが国だけでなく支那(中国)も日本も統一し、その他東西の多くの国々をもれなく統一したとしても、その功でその罪を覆うことはできないのに、まして三国統一した功でその罪を覆うことなどできまい」という文章である。

 唐突にこの文章が出てきたのは、「故・李承晩と故・金日成は、米国とソ連韓半島朝鮮半島)を分割統治するために連れてきたカイライ(操り人形)だ」という既出の“外勢”批判に“誘導”するためではないだろうか。

 

 その新羅であるが、「新羅は唐の勢力を追い出し」(前出)と威張れるような国ではなかった。

 なにしろ、金春秋が唐の援助をあおいだ後は、新羅固有の制度・年号を改めて、「唐の元号を用いるかたわら、名前や、服装を唐風に改めた。韓人の姓は三国時代までは二字姓だったが、創氏改名が強いられ、一字姓となった」し、新羅は自らを「大唐国新羅郡」とへりくだったような“事大”なのである。

 

 新羅の外交活動は、「唐との対立期には対日外交が重視され、日本へはほぼ毎年、使節が派遣され、時には年、複数回に及ぶこともあった。だが、7世紀後半、唐の新羅に対する軍事的脅威がなくなり、新羅・唐関係が改善されると、新羅にとって最重要外交相手国は唐となった。それにともなって、新羅の対日外交の意義は相対的に低下した。そのため、新羅はこれまでの低姿勢外交から対等関係での対日外交に臨むようになり、日本との間で軋轢が生じ、両国の関係は悪化の一途をたどった」(『韓国朝鮮の歴史』)。

 デジャヴーである。

 韓国は、冷戦期には彼らなりに「反日」を管理(抑制)していたが、グローバル経済時代に中国が貿易相手国1位になると、ここぞとばかり「反日」を全開している。