断章74

 韓国人は日本に対して強烈な敵対感情を持っている。それは歴史的に受け継いだだけでなく、戦後の捏造・歪曲された歴史教育によってつちかわれたのである。多くの韓国人は李氏朝鮮を“美しい高尚な国”だったと教えられている。 そして非常に不道徳で暴力的な日本帝国主義が入ってきて李氏朝鮮を滅亡させたと考えている。

 これまで見てきたように、韓国の『検定版 高等学校韓国史』は、都合のいいことだけをうまく強調・利用し、隠しようのない不都合なことは曖昧に或いは小さく書くことで、客観的な“史実”にそった教科書であるように見せかけている。

 捏造と歪曲は、史実をもって暴露しなければならない。

 

 「一般に朝鮮の女たちは姑のルールにおとなしく従う。反抗して怒りや醜聞といった事態を招けば、庶民階層の女の場合、厳しく打ちすえられて命令に従わせられる。しかしながら貴族階級では夫が妻を叩くことは慣習により禁じられており、夫にとって救済策は離婚しかないものの、再婚はむずかしいため、ふつう夫は自分の宿命に忍従する。とはいえもしも、妻が夫を苦しめ家内の平穏を壊しているうえ、さらに不貞まで働いたとなると、夫は妻を高官のもとへ連れていくことができる。高官はこの妻を容赦なく打ちすえたあと、従者にあたえてもかまわない」(『朝鮮紀行イザベラ・バード 1897年刊)。

 

 「朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはクズのような民族でその状態は望みなしと考えていた。ところが(ロシア)沿海州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。みずからを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だった。そういった彼らの裕福さや品行の良さは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は(引用者注:本国朝鮮人の特徴である猜疑心、怠惰と慢心、目上への盲従から脱して)徐々にまっとうな人間になりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる」(同書)。

 

 この地の朝鮮人たちが、その後どうなったかを、わたしたちは知っている。

 「1937年、ソ連と日本の国境紛争が悪化すると、スターリン朝鮮人が日本のスパイとなることを恐れて、彼らを極東からソ連内のカザフスタンウズベキスタンへと強制的に移住させ、そこで集団農場を営ませることを決めた。

 幾万もの朝鮮人が、ある日突然、荷物をまとめるよう命じられ、窓のない家畜輸送列車に押し込められた。シベリアの厳しい冬に約6500キロを移動する旅は過酷なものだった。土地を追われた人々はやがて、約束された建材も現金の援助も、決してやってこないことを悟った。昔からずっと米を作って暮らしてきた農民たちにとっては、中央アジアの乾燥した土地や遊牧の文化に順応することも容易ではなかった(引用者注:病気や餓死で多くの人が死んだ)」(文・Ye Ming  訳・北村京子)。

 

 (1895年1月頃、日本がイニシアチブをとった朝鮮の改革に対する)「朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。一般大衆は、本当の意味での愛国心を欠いているとはいえ、国王を聖なる存在と考えており、国王の尊厳が損なわれていることに腹を立てていた。官吏階級は改革で、『搾取』や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈(バッコ)していた。

 このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が2つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。『搾取』と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた」(『朝鮮紀行イザベラ・バード 1897年刊)。

 

 「通常の意味での『交易』は朝鮮中部と北部のおおかたには存在しない。つまり、ある場所とほかの場所とのあいだで産物を交換し合うことも、そこに住んでいる商人が移出や移入を行うこともなく、供給が地元の需要を上回る産業はないのである。このような状態は朝鮮南部、とくに全羅道でもある程度見られる。平壌をのぞいては、わたしの旅した全域を通して『交易』は存在しない。

 このような状況をつくった原因は、朝鮮馬1頭で10ポンドに相当する現金しか運べないほど貨幣の価値が低下していること、“清”西部ですら銀行施設があって商取引が簡便になっているのに、ここにはその施設がまったくないこと、概して相手を信用しないこと、皮革業に対する偏見、すなわち階級による偏見があること、一般に収入が不安定で、まったくもって信じられないほど労働と収入が結びつかないこと、そして実質的に独占しているギルドがおびただしくあることである」(同書)。

 

【参考】

 「両班でなければ仕官できない閉鎖性は、いつしか『自称』両班を急増させていた。17世紀までは総人口のせいぜい7%だったものが、19世紀後半期には49%にもなっていた。人口の半分が『支配階級』の国家なぞ前代未聞である。ただし、両班=任官ではなく、多くは仕官浪人であった。両班自身は他の生業に就いてはならず、それがためにまた任官をめぐっての中央までタテにつながる党争を激化させていたのだ。」

 「軍事力については、国際安定と国内での文官優越主義は、武官や軍隊の軽視を極端にまで押し進め、日本を含めた近代欧米諸国に出会ったときには、最早、自力で国家防衛できる軍隊は存在しなかったと言うに等しい状態だった。それが『宗主国』清に、またある場合には日本やロシアに庇護や後見を求めなければならなかった理由である」(「朝鮮史」萬 遜樹)。