断章71

 「14世紀になると、社会不安や王室の内紛によって元の支配が揺らいできた。・・・朱元璋が集慶(現・南京)で政権を立て、1368年に大都を陥落させて元をモンゴル高原に追いやった。同年、朱元璋は南京において即位し、明の初代皇帝となった。・・・明が建国するや、即位直後から元の支配から離脱する動きを示していた(高麗の)共愍王はただちに外交使節を送り、翌年、元との関係を断絶して明に朝貢し、冊封を受けることにした。しかし、共愍王は1374年に親元勢力に暗殺され、辛禑が即位して元と明に両属することになった」(『韓国朝鮮の歴史』)。

 このとき高麗で起きていたことは、「元」と「明」のどちらに事(ツカ)えるのかを争う「事大主義」党争である。現状維持でよしとする親「元」派・仏教派の旧貴族支配層と、現状打破を求める親「明」派・儒教派の新興士大夫層との対立である(韓国の『検定版 高等学校韓国史』から、できる限り取り除かれ、あるいは薄められているのが、どちらに事(ツカ)えるのかを争った「事大主義」党争である。史実を直視できないのだ)。

 

 「武人・李成桂は、1388年、明に対抗するため遼東半島に向かうはずであった遠征軍を引き返し、クーデターを起こして政権を掌握、1389年に恭譲王を擁立すると親『明』派・儒教派の新興士大夫層の支持を受けて体制を固め、1392年に恭譲王から禅譲される形で王位につき、朝鮮王朝(李氏朝鮮)を興した。1394年、旧高麗勢力の叛乱を懸念した李成桂は、恭譲王はじめ主だった高麗王族を殺害した上で、王姓を名乗る者の身の安全を保証して一ヶ所に集め、移住先へ移動させるとして船に乗せ、それを沈めて全員を溺死させた」(Wiki)。

 

 「李成桂の新王朝は、激しい争いをともに戦ってきた子飼いの部下たちと、鄭道伝(チョン・ドジョン)をはじめとする儒学を身につけた士大夫官僚たちという、『武』と『文』の連合的性格をもっていた。新王朝はその中で、文=学問を国家運営の基軸にすえる政策をとっていった。李成桂の幕僚として新王朝設立に抜群の功績をあげた鄭道伝は、国家の要職を独占し、その権勢は他にならびのないものになった」(『韓国朝鮮の歴史』)。

 韓国海軍の駆逐艦「クァンゲトデワン(広開土大王)」による日本哨戒機レーダー照射のときに一緒にいた韓国海警察庁の警備救難艦「5001 サンボンギョ(三峰号)」の、“サンボン”は、この鄭道伝の‟号”である。

 

 「しかし、このような功臣たちの政治には不満をもつ者が多く、それが次期王位をめぐる王室の内紛と結びついた。太祖(李成桂)には先妻に6人、後妻に2人のあわせて8人の男子がいたが、彼は末子の芳碩をつぎの国王にするつもりでいた。父王の創業に大きな功績があった五男の芳遠は、1398年、芳碩の教育にあたっていた鄭道伝が、先妻の子である自分たちを除く陰謀を企てたとして殺害、異腹の末の2人の弟七男芳蕃と芳碩までも殺した」(『朝鮮史』)のである。

 

 李氏朝鮮は、中国の諸制度を引き写して諸制度を整備したが、核心は、儒教とりわけ朱子の学(朱子学・性理学)による国家統治から社会習俗に至るまでの徹底的教化である。その徹底性は、まるでカルトである。しかも、朝鮮では、つねに血まみれの「党争」がつきものだった。

 

 「権威と権力の一致をめざした政権のなすことは、いかにも暴力的であった。1474年には明国の法律を用いて、火葬者は百叩き、埋葬しないものは墓暴きと見なして斬り殺すことにした。それでも霊力の宿る骨がほしくて、骨を掘り起こしてかますに隠している民衆がいた。これは一族島送りが討議された。この間、従来の葬儀や招魂を司っていたシャーマンや僧侶は弾圧され、ソウル所ばらいとなり、放逐されて山野を彷徨した。19世紀末に至るまで、朝鮮では僧侶は賤民扱いでソウルに入ることも許されなかった」「王と儒臣たちの儒教教化は、ヨーロッパ中世の異端審問と教理の実践を想起させるほど過激なものであった」(『朝鮮民族を読み解く』)。

 

 本場である「中国で漢王朝以来、政治権力を握った官吏によって信奉された儒教は、明白な不平等、したがってまた自由にふるまう大きな富の拒否、農業の振興、貨幣・信用制度・交易の国家管理を要素として含んでいた。(中略)1430年代以降、国家権力と市場経済(官吏と商人)の緊張にみちた協調と反発のなかで、地主と儒教的官吏からなる保守的な党派が勝者となった。商業と資本蓄積に対する消えることのない不信が優位を占めた」(ユルゲン・コッカ)のであるから、狭い半島国家で大陸を真似、しかも徹底すれば、商業の発展を抑圧することになった。また、文=学問を国家運営の基軸にすえる政策なのであるから、徐々に軍事力が衰退したのである。

 

 そして、「仏教が敗退し、武官が敗退した後は、儒教文官同士の党争である。殺し合いの政争は、国家整備が終わった15世紀末から開始された。士林や儒林と呼ばれた彼らは、初めは『東人』と『西人』に二分し、その後小分裂を繰り返し、王朝の滅亡まで党争を続けた。

 党争の本格化は16世紀後半以降である。分派を挙げれば、南人、北人、大北、小北、骨北、功西、清西、少西、老西、……。また、各派が信奉する名儒を祀る『書院』という儒学所が各地に建てられ、これを介した荘園が徐々に拡大していった」(「朝鮮史」萬 遜樹)。

 

 1592年、日本軍が大軍で侵攻してきた。任辰倭乱(ジンシンワラン)(注:文禄の役)である。加藤清正の軍は領土の最東北端まで侵入し、王朝存亡の危機に立たされた李氏朝鮮宗主国・明に援軍を要請した。その後、戦況は停滞し、和議の交渉が継続したが、1597年に日本軍はふたたび大軍を派遣して攻勢に出た。丁酉再乱(テイユウサイラン)(注:慶長の役)である。日本軍は、翌年8月の豊臣秀吉の病死を機に撤退を開始した。

 

 日本軍の朝鮮侵攻に対応した明の軍事力が弱体化した隙に、今の中国東北地方にあたる地域にいた女真族の中の愛新覚羅氏出身の「ヌルハチは、1616年、『金国』の再興を宣言し明から独立した。これを後金という。1619年にヌルハチはサルフの戦いで明の大軍を撃破し、勝利に乗じて地域の中心である瀋陽を占領してここに遷都した。・・・ヌルハチの息子ホンタイジは、1627年、・・・朝鮮に遠征軍を派遣し屈服させた。これを朝鮮では丁卯胡乱(テイボウコラン)と呼ぶ。朝鮮にとって女真人は胡(野蛮人)だという意識である。この時は後金を兄とし朝鮮を弟とする盟約を結び、親明政策を破棄し、王族を人質として差し出すことなどを条件として後金軍は撤退した。・・・1636年、ホンタイジは国号を『清』と改め、満州族・漢族・蒙古族に君臨する皇帝を名乗り、朝鮮に臣従するよう要求してきた。朝鮮がこれを黙殺するやホンタイジは10万の軍を率いて朝鮮に攻め込み、漢城の南にある南漢城山城に籠城した朝鮮国王仁祖を捕らえて服属を誓わせた。1637年、仁祖は漢城南郊を流れる漢江の渡し場三田渡で臣従を誓う三跪九叩頭の礼によってホンタイジに許しを乞うた。三田渡には、朝鮮の手によって、『大清皇帝功徳碑』が建てられ、ホンタイジの徳を称えて服従することを誓わせられた。これを朝鮮では丙子胡乱(ヘイシコラン)と言う。服従の条件として提示されたのは、明皇帝の冊封を破棄すること、国王の長子と次子や大臣の子を人質として差し出すこと、明に遠征する際には援軍を出すこと、毎年黄金100両・白銀1000両など大枚の朝貢を送ることなど、朝鮮にとって過酷なものだったがすべて承諾せざるを得なかった。清皇帝に対しては朝貢などの名目で使節を送り、朝鮮国王は清皇帝の冊封を受けてその臣下というかたちをとることになった。この関係は1895年、日清戦争終結のために日本と清との間で締結された下関条約で、朝鮮は『自主独立』の国であると定められるまで、続けられた」(『韓国朝鮮の歴史』)。

 

 まさしく、「朝鮮が中国の忠実な臣民であり続けてきたことは間違いない事実であり、『誰にも支配されない誇り高く優秀な民族』は完全な虚構であるのは言うまでもない。・・・15世紀に独自文字であるハングルが発明された時も、両班(特権階級)はこぞって使用に反対している。『自分たちには漢字がある、独自の文字を持つのは未開人だけだ』というのがその主張だった」

 「韓国の国旗である大極旗は中国の易経がもとだし、『金日成』『金大中』のような人名も漢姓に基づいている。どう否定しようが、事大の伝統はそれほど深く半島文化に根付いており、精神構造そのものともいえる」(『立ち直れない韓国』)。