断章547
「革命のためには何でもやる(何でもあり)」というネチャーエフには、また後年会うことになろう。さしあたり、ネチャーエフ事件は、青年・学生のあいだに、秘密の陰謀的な活動に対する疑問、ためらいを生じさせた。
「このときピョートル・L・ラブロフの『歴史書簡』は、啓示のように青年たちに革命の道を教えた。
〈歴史は宿命ではない。その時代の最高の道徳の代表者としてのインテリゲンチャが、自由に選択して歴史をつくっていくのだ。その創造が進歩だ。しかし、インテリゲンチャは、自分を歴史の創造者だと思いあがってはいけない。インテリゲンチャが知識の特権者でありうるのは、多数の人民大衆が食うや食わずで労役に服していてくれるおかげである。インテリゲンチャは、その全存在を人民大衆に負うている。インテリゲンチャは、この負債を人民大衆に返すべき道徳的な義務をもっている。進歩の代償を支払うべきときが今きたのだ〉と告げた。
『歴史書簡』は、ネチャーエフ事件のショックに意気消沈した青年たちには、救いであった。陰謀に失敗したからといって革命が絶望のわけではない。それが失敗したのはタクティック(注:特定の目標に達するためのプラン)だけがあってモラルがなかったからだ。インテリゲンチャはモラルによって人民大衆につながっているのだ。この人民大衆と一緒になれば、革命は陰謀でなく、公然と人民の力によって行いうるではないか。『歴史書簡』は、革命的な青年をネチャーエフの孤独から解放した。(中略)
1873年の暮れから、ペテルブルク、モスクワ、キーエフ、オデッサ、サラトフ、サマラ、ハリコフの学生を中心にした青年たちが続々と農村に入っていった。農民にたいして社会主義の宣伝をしたり、革命の必要を説いたりした。この運動は翌1874年の夏に最高潮に達し、2万3千人の青年が参加した。参加者の三分の一ぐらいが女子学生であった。『狂った夏』がすぎて1874年の冬から青年たちの大検挙がはじまった。女性をふくめて700人以上が逮捕された。(中略)
『人民のなかへ』の運動は1875年にはほとんど終息してしまったが、それは革命家の徒弟修行とでもいうべきものだった。(中略)
『人民のなかへ』は、それに参加した青年にはえがたい教訓を与えたが、農民たちは青年からほとんど何も学ばなかった。農民たちは、まだまだ皇帝を信じていた。青年たちの宣伝を聞こうとしなかっただけでなく、警察に密告したり、ひっくくって突き出したりした」(松田 道雄『世界の歴史22 ロシア革命』を抜粋)。
【参考】
ラブロフは、「プスコフ県の地主貴族の家柄に生まれ、ペテルブルクの砲術学校を卒業後、軍の学校で数学を教えた。しかし、チェルヌイシェフスキーの救援活動から当局に目をつけられ、1867年ボログダ県に流刑となった。この流刑中に『歴史書簡』を執筆した。そのなかで革命闘争におけるインテリゲンチャ(批判的に思考する個人)の必要性を説いて、ナロードニキの運動に大きな影響を与えた。1870年流刑地を逃亡してパリへ亡命し、第一インターナショナルに加盟するとともに、パリ・コミューンにも積極的に参加した。1871年コミューンによってロンドンに派遣され、そこでマルクスおよびエンゲルスと知り合う。ラブロフは、革命的プロレタリアートが社会変革の中心勢力である西ヨーロッパと違って、遅れたロシアではインテリゲンチャが農民に社会義思想を宣伝することによって、社会革命の準備をすべきであるとして、1873~1876年に雑誌『前進!(フペリョード)』を発行した。しかし、1880年代になると革命党の政治闘争=テロの重要性を認め、『人民の意志』党と提携して『人民の意志通報』の編集にあたった。1900年亡命先のパリで死去」(日本大百科全書・外川 継男)。