断章542

 ロシアの危機を何によって解決すべきか? 政府が解決できないとすれば、どうすればいいのか? 

 ロシアのインテリは、雑誌『同時代人』(ソヴレメンニク、『現代人』とも訳される)誌上で回答した。ちなみに、

 「インテリゲンチャという言葉は、直訳すると『知』や『知能』という意味を持ちますが、一般的には『知識人』という意味で使われます。知識や教養に富んでいる人々を指す言葉です。

 インテリゲンチャは、専門的な知識や教養を持ち、広い視野で社会や文化の現状や問題を分析し、洞察力を示すことがあります。彼らの知見やアイデアは、社会的な変革や進歩の方向性を示すことができるかもしれません。したがって、一部のインテリゲンチャは時代の羅針盤の役割を果たすことがあるかもしれませんが、すべてのインテリゲンチャがそうであるわけではありません。

 時代の羅針盤となるためには、多くの人々に影響を与えることや、社会的な課題や価値観に対して示唆的なアイデアや解決策を提供することが必要です。また、社会の多様性や複雑性を理解し、包括的な視点を持つことも重要です」と、ChatGptは言う。

 

 「雑誌『同時代人』は、1836年、サンクトペテルブルクで詩人プーシキンによって創刊された。当時の文壇は皇帝の意を受けて専制政治を擁護する者たちが支配していた。そのような状況に対抗するために創刊された。1837年にプーシキンが決闘で命を落とすと、友人であるジュコフスキーや批評家プレトニョフらが運営を引き継いだ。

 1846年、出版業界で地歩を固めつつあったネクラーソフが小説家パナーエフとともにプレトニョフから『同時代人』を買い取る。事業家・編集者としても優れていたネクラーソフのもとで、雑誌は発展していった。同年、ロシアに文芸批評を確立したベリンスキーを編集者として招き、翌年から雑誌は月刊となる。ベリンスキーは1848年に病死するが、同年には発行部数が3,100部に達していた。さらに1850年代にかけて、ツルゲーネフトルストイなどの文学史に残る作品を次々に掲載していき、ロシア文学の粋を結集した観があった。

 『同時代人』には、1850年代半ばに若い世代の批評家チェルヌイシェフスキーとドブロリューボフが加わり、政治・経済・哲学・文学などの分野でナロードニキや革命運動を指導する論文を発表して多くの支持を集める。だが、“ラズノチーネツ”(平民階級出身で急進的な反体制インテリ)の彼らと、ツルゲーネフら貴族出身の穏健で自由主義的な作家たちとの対立が深まっていった。

 1860年ツルゲーネフは、自作を批判したドブロリューボフの論文の掲載を差し止めるようネクラーソフに要請した。しかし、ドブロリューボフに立場の近いネクラーソフが拒否したので、ツルゲーネフは『同時代人』と絶縁し、それをきっかけにトルストイら他の貴族出身の作家たちも雑誌を去ることとなった。その衝突にもかかわらず、1861年には発行部数が最高の7,126部となる。だが、同年ドブロリューボフが病死する。

 翌1862年、雑誌を危険視した政府は、8か月の発行停止を命じた。さらにチェルヌイシェフスキーが逮捕され、投獄ののちシベリアへ流刑となる。1863年に発行を再開後、急進派の指導的小説家サルトゥイコフシチェドリンが招かれ、チェルヌイシェフスキーが獄中で執筆した長編小説『何をなすべきか』が掲載されて、革命家の生き方が青年たちを熱狂させる。また、グレープ・ウスペンスキーら雑階級出身の若手の作家も加わった。しかし、1866年4月4日、革命家ドミトリイ・カラコーゾフによる皇帝アレクサンドル2世暗殺未遂事件をきっかけに俄然(がぜん)厳しくなった弾圧を受け、雑誌は廃刊に追い込まれた」(Wikipediaを再構成)。