断章544
1860年代、ロシア帝国は領土拡張を続けていた。また支配下にあったポーランド、リトアニア、白ロシアでの反乱を制圧した。
「専制国家は他の国民に対しても専制的だ。国民が専制主をチェックできないからだ。それどころか、国民は自分が抑圧されていることを、他国民の抑圧によってうさばらしできるので、非道を非道と思わない。ロシア国民はクリミア戦争の敗北による屈辱感を、領土拡大によってみずからなぐさめた」(松田 道雄『世界の歴史22 ロシア革命』)。
1864年には、ロシア最初の株式会社組織による銀行が創立された。国民学校令が制定され、学制改革も行われた。こうした改革に見られるように、国内経済は当時、かなり目覚ましく発展した。
とはいえ、専制政治はそのままに存続し、大地主が依然として支配的地位を占めた農村は、根深い社会的矛盾の基盤として残り、さらに初期資本主義経済段階への突入による矛盾の激化が見られた。
ペテルブルクの大学を出たピーサレフは、1862年7月に逮捕されて、ペトロパヴロ要塞に4年半収監された。彼は、「人民と政府とのあいだに和解はありえない。政府の側には人民からだましとった金で買収した悪漢しかいないのに、人民の側には思考し、行動しうるわかい世代がいる」(同前)と言った。
1863年には、モスクワ大学出のイシューチンを中心にした「オルガニザーチア」というグループが活動を始めた。「いっさいは革命のために捧げられねばならぬと信じた青年が彼の周囲に集まった。あるものは大学を途中でやめたし、あるものは財産のすべてを寄付した。食うものも食わず、寝るときには板の間に寝た。彼らは一種の共産村をつくっていた。5年後に革命がきっとおこると思っていた。その革命のためにどのような犠牲も払わねばならぬと信じたイシューチンは、一種のマキャベリアンであった。
組織の中にもうひとつ『地獄』という組織を作って、これが皇帝暗殺を計画した。権力の代表者の暗殺は、権力が十分に組織されていて、人民が権力を信用し、権力とたたかう組織が絶望的に分散されているときにおこる思想である。(中略)
『地獄』のメンバーのなかでクジを引いて、当たった誰かが、まったく単独の行動として暗殺をする。もし失敗したら、またクジを引くというのが計画だった。『地獄』に権威をもたせるために、それはヨーロッパ革命委員会のロシア支部であるとイシューチンは言っていた。
ドミトリ・V・カラコーゾフは、貧窮のなかでの活動で身体をこわし、一時は自殺を考えたが、人民にたいして何の役にもたたずに死ぬのを恥じて、すすんで皇帝暗殺をかってでた。1866年4月、アレクサンドル2世の暗殺を試みたが失敗した。・・・ただちに検挙がはじまって、数百人が捕らえられた。・・・この事件で地下運動の取り締まりはいっそうきびしくなった」(松田 道雄『世界の歴史22 ロシア革命』を再構成)。