断章545
「1869年の12月26日、モスクワの農業大学のなかの池の氷の下に大学生の死体が発見された。頭部の銃創で他殺であることが明らかだった。ただちに捜索が始まった。学生がイワーノフということがわかって、その周囲の人物が多数検挙されて事件の全貌がわかった。
『ヨーロッパ革命家同盟』からロシア支部をつくるために派遣されたネチャーエフという男が、その支部に『人民の裁き』という名をつけて、モスクワやベテルブルクの学生のあいだに秘密サークルを作っている。このサークルは5人組が単位で、他のサークルのことはいっさいわからない。サークルのメンバーもお互いを番号で呼び合うだけで名を知らない。
1870年2月19日にロシアに革命がおこることに決まっていて、サークルのメンバーはそのために活動をしているということが判明した。殺されたイワーノフはこの秘密組織を密告しそうだというので消されたのだった。ネチャーエフは、死体が発見される前に、スイスに脱出していた。(中略)
1871年の7月1日から9月1日まで行われた『ネチャーエフ事件』裁判は主犯逃亡中のまま、法廷に被告79人がひきだされた。ことごとくが20代あるいはそれ以下の青年だった。彼らは非合法のサークルに所属したことだけで起訴されたのだ。カネを集めるとか、集会の部屋を貸すとか、一緒に本を読んだとかいうことが起訴理由だった。しかし、彼らは勇敢に専制とたたかう決意を法廷で述べた。革命が近いことを信じると叫んだ。
だが、政府は、『君たちの組織を作ったネチャーエフは残忍な殺人犯人だ、彼は君たちを利用しているだけなのだ』と言って、その証拠に被告たちの知らない秘密の文書『革命家の教理問答(カテキズム)』を発表した。
・・・被告たちは愕然(がくぜん)とした。自分たちは利用されただけにすぎないと思うと、ネチャーエフのあの脅迫的な態度と冷酷さが、あらためて思い出された。ネチャーエフが5人組をたくさん作るために、トリックや脅しを使ったことが、この場合かえって被告たちを彼から引き離す結果になった。政府はこの裁判に限って公開し、その記録を新聞記者に配った。ロシアだけでなくヨーロッパの新聞まで、これをスキャンダルとして広めた。
その後、ロシアの亡命者のあいだで孤立したネチャーエフは、スイスで逮捕された。1871年10月にロシアにひきわたされ、皇帝の命令によりペテロパブロ要塞に生ある限り監禁されることになった」(松田 道雄『世界の歴史22 ロシア革命』を再構成)。
「セルゲイ・ネチャーエフ(1847年~1882年)は、貧しい家庭(父は貧しい労働者、母は解放農奴の娘。6歳で母を失う)に生まれた。独学で教師資格を得て教区立学校で教えはじめた。かたわらペテルブルク大学の聴講生となって、1868~69年の大学紛争に加わり、学生運動の革命化を図ってピョートル・トカチョフ(1844年~1885年)たちと共に学内少数派だった急進派に属した。その後、スイスに脱出し、老革命家・バクーニンに近づき、バクーニンと共に革命を訴えるいくつかの宣伝文書を作成した。
その中で一番著名なものが、1869年夏に著した『革命家の教理問答(カテキズム)』である。・・・その主張は、革命という『目的は手段を正当化する』という原理で貫かれ、後に『革命のマキャベリズム』、『革命のイエズス主義』と称された」(Wikipedia・日本大百科全書などを再構成)。
【参考】
「イエズス会は、16世紀の宗教改革の時代に、フランス・モンマントルの礼拝堂で、イグナティウス・デ・ロヨラとその学友によって『エルサレムへの巡礼』や『清貧と貞節』等の誓いが立てられたのが、その始まりである。イエズス会は『神の軍隊』、イエズス会員は『教皇の精鋭部隊』とも呼ばれ、軍隊的な規律で知られる」(Wikipedia)。