断章458

 「この世に神様が 本当にいるなら あなたに抱かれて 私は死にたい ああ湖に 小舟がただひとつ やさしくやさしく くちづけしてね くり返すくり返す さざ波のように♪」島倉 千代子

 くり返すものは、さざ波だけではない。恐慌もバブルの崩壊もくり返すし、「老いの繰り言」もくり返すのである。

 だからというわけではないが、山崎 元の言葉を再度、引用しよう。「“資本主義”とか“新自由主義”といった言葉を使って、何かを考えたかのように勘違いしている人が多いことが残念だ。おそらくは、十分に考えていないか、言葉を発したこと自体に酔っている」。

 つまり、ガラパゴス化した日本の言論空間にはびこっている「“資本主義”批判」は、おおむね、情緒的な印象論にまで後退した「“資本主義”批判」にすぎないのである。

 こう言い換えてもよい。「原価千円のものを一万円で売りつけて九千円の暴利をむさぼる詐欺師は、いつの世にもいる。資本主義社会に限ったわけではない。笑顔の裏で弱者を食いものにしている冷血漢も、やはりいつの世にもいる。太古の石器時代だろうと現代の資本主義社会だろうと、悪い奴はいつもいるのだし、人はその悪い奴にえてしてだまされがちなのである」(呉 智英)。そうした、人間社会のあまりに人間的なあれこれと資本制社会の本質的問題を“ごちゃまぜ”にした酒場政談レベルの世間知や道徳論による俗流資本主義批判があふれていると。

 こうした俗流資本主義批判、あるいはかつてコミンテルン日本共産党も)が担(かつ)ぎまわった「資本主義の“全般的危機論”」は、資本制生産様式の本質を理解していないので、かならず社会=世界(の未来)を見誤ることになるのである。

 共産党や「左翼」インテリは、支持(票)や印税(講演料)につながれば「それでよし」なのであろう。しかし、酒場政談レベルの世間知や道徳論による俗流資本主義批判、あるいは「資本主義の“全般的危機論”」をまともに受け取った人たちには、得るところのない話に終わるのである。

 ―― 近頃のマルクス関係の辞典・事典では目にすることのない「資本主義の全般的危機」論も、ひと昔前のマルクス学辞典・事典では大きなスペースを占めていた。そこでは、後に京都大学経済学博士・神奈川大学名誉教授という立派な肩書をもった清水 嘉治が、滔々(とうとう)と、「資本主義の全般的危機」について語っていたのである。恥ずかしくも、その内容は、スターリン主義政治官僚の“プロパガンダ”(現象論オンリー)の丸写しなのであった。