断章455

 19世紀的な「社会進化のパラダイム」は消失した。にもかかわらず、「今日は来ないが、明日は来る」と、「社会主義のパラダイス」を待ち望む者が絶えることはない。

 「マルクスを読みたまえ」と、マルクス主義者と“同伴”知識人は言う。「資本主義の残虐、資本主義の悲惨、資本主義の非情、資本主義の限界、資本主義の終焉の必然性。全部がそこに書かれているから」と。

 しかし、これは近視眼的で非科学的な、「自称」マルキストプチブル知識人による“誤読”なのではないだろうか?

 というのは、“資本主義”が昔も今も多くの労働者を苦しくて汚くて臭い境遇に落としていることは間違いない。

 しかし、“資本主義”というメダルを裏返してみれば、金ぴかで楽しくてかぐわしい匂いもするのだ。たとえば、「1750年以前は、世界のひとり当たり所得が倍増するのに6,000年かかっていた。だが、1750年以降は、50年ごとに倍増し」(カール・B・フレイ)たし、産業革命後の都会に出た男女は、因習にとらわれる田舎には帰らなかったのである(また、世界には、今なお“資本主義”の未発達、経済後進国であるために苦しんでいる人々が多くいるのである)。

 

 かつて、日本共産党・不破 哲三は、こう自画自賛した。

 「社会主義は、原理・原則から逸脱しても、やがてはこれを直す力が働く、それには時間がかかるかもしれないけれども、そういう力は必ず働いて、誤りを正すことができるという見通しをもっています。これを私たちは、社会主義の『復元力』とよんでいます。この『復元力』論は、『復元力』という用語をふくめて、日本共産党が独自に展開してきた考え方です。

 ここでつけくわえていいますと、世界の社会主義が、おくれた条件から出発したために、革命後70年近いソ連をふくめて、世界史的にいえば、まだ社会主義として生成の過程にあるのだという見方 ―― われわれはこれを『生成期』論とよんでいますが、これも日本共産党独特の見方です。どちらも日本共産党が自主的に展開してきた理論的な見地で、世界で広く注目されているものです」(『世界史のなかの社会主義』1987)。

 

 わたしは、この「独特の見方」―― おそらく今はひっそりと“お蔵入り”しているであろう(笑い) ―― を“援用”してみたい。

 第一に、わたしは、“資本主義”は『成長期』だという見方を提起したい。

 長~い狩猟採集時代を経て、農耕牧畜を生業とするようになって1万年という時間があった。ところが、産業革命・工業化が本格的に始まってから、200年ほどにすぎない。世界史的にいえば、“資本主義”は、まだ成長の過程にある。あと500年つづいても不思議ではないという見方である。

 第二に、わたしは、“資本主義”には強力な『復元力』があると提起したい。

 “資本主義”景気循環の局面のひとつである恐慌は、破壊的である。当初、数カ国だけだった恐慌は、やがて欧米全域へ、ついには全世界へ広がり、大きさ、激しさも増大した。しかし、まるで人間の“成長痛”(幼児から思春期の成長期に起こる子どもの下肢の「特有の症状や特徴をもつ痛み」の総称)のように、“資本主義”は、恐慌後にさらに発展拡大してきたのである。

 

 プチブル知識人や俗流マルキストは、自分たちの目がまだ黒いうちに「地上の楽園=至福のコミュニズム」が来てほしいという焦燥につねに駆られている。

 だから、「一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化(ふか)しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない」(マルクス)ということを、聞いても理解できないのである。