断章542

 ロシアの危機を何によって解決すべきか? 政府が解決できないとすれば、どうすればいいのか? 

 ロシアのインテリは、雑誌『同時代人』(ソヴレメンニク、『現代人』とも訳される)誌上で回答した。ちなみに、

 「インテリゲンチャという言葉は、直訳すると『知』や『知能』という意味を持ちますが、一般的には『知識人』という意味で使われます。知識や教養に富んでいる人々を指す言葉です。

 インテリゲンチャは、専門的な知識や教養を持ち、広い視野で社会や文化の現状や問題を分析し、洞察力を示すことがあります。彼らの知見やアイデアは、社会的な変革や進歩の方向性を示すことができるかもしれません。したがって、一部のインテリゲンチャは時代の羅針盤の役割を果たすことがあるかもしれませんが、すべてのインテリゲンチャがそうであるわけではありません。

 時代の羅針盤となるためには、多くの人々に影響を与えることや、社会的な課題や価値観に対して示唆的なアイデアや解決策を提供することが必要です。また、社会の多様性や複雑性を理解し、包括的な視点を持つことも重要です」と、ChatGptは言う。

 

 「雑誌『同時代人』は、1836年、サンクトペテルブルクで詩人プーシキンによって創刊された。当時の文壇は皇帝の意を受けて専制政治を擁護する者たちが支配していた。そのような状況に対抗するために創刊された。1837年にプーシキンが決闘で命を落とすと、友人であるジュコフスキーや批評家プレトニョフらが運営を引き継いだ。

 1846年、出版業界で地歩を固めつつあったネクラーソフが小説家パナーエフとともにプレトニョフから『同時代人』を買い取る。事業家・編集者としても優れていたネクラーソフのもとで、雑誌は発展していった。同年、ロシアに文芸批評を確立したベリンスキーを編集者として招き、翌年から雑誌は月刊となる。ベリンスキーは1848年に病死するが、同年には発行部数が3,100部に達していた。さらに1850年代にかけて、ツルゲーネフトルストイなどの文学史に残る作品を次々に掲載していき、ロシア文学の粋を結集した観があった。

 『同時代人』には、1850年代半ばに若い世代の批評家チェルヌイシェフスキーとドブロリューボフが加わり、政治・経済・哲学・文学などの分野でナロードニキや革命運動を指導する論文を発表して多くの支持を集める。だが、“ラズノチーネツ”(平民階級出身で急進的な反体制インテリ)の彼らと、ツルゲーネフら貴族出身の穏健で自由主義的な作家たちとの対立が深まっていった。

 1860年ツルゲーネフは、自作を批判したドブロリューボフの論文の掲載を差し止めるようネクラーソフに要請した。しかし、ドブロリューボフに立場の近いネクラーソフが拒否したので、ツルゲーネフは『同時代人』と絶縁し、それをきっかけにトルストイら他の貴族出身の作家たちも雑誌を去ることとなった。その衝突にもかかわらず、1861年には発行部数が最高の7,126部となる。だが、同年ドブロリューボフが病死する。

 翌1862年、雑誌を危険視した政府は、8か月の発行停止を命じた。さらにチェルヌイシェフスキーが逮捕され、投獄ののちシベリアへ流刑となる。1863年に発行を再開後、急進派の指導的小説家サルトゥイコフシチェドリンが招かれ、チェルヌイシェフスキーが獄中で執筆した長編小説『何をなすべきか』が掲載されて、革命家の生き方が青年たちを熱狂させる。また、グレープ・ウスペンスキーら雑階級出身の若手の作家も加わった。しかし、1866年4月4日、革命家ドミトリイ・カラコーゾフによる皇帝アレクサンドル2世暗殺未遂事件をきっかけに俄然(がぜん)厳しくなった弾圧を受け、雑誌は廃刊に追い込まれた」(Wikipediaを再構成)。

断章541

 ロシア帝国ロマノフ王朝)は、専制的な統治を続けていた。「ニコライ1世(1825年~1855年)は、“デカブリストの乱”後の不穏な社会情勢を『腐敗、不正常』とみなした。有害な思想を取り締まることを目的として検閲法を発布。さらに、皇帝官房第三部という秘密警察を設置した。この秘密警察は、ロシア帝国全土にわたり国民を監視・抑圧していったため、時と共にその悪名は高まり、『ヨーロッパの憲兵』を以って任ずるニコライ1世の反動政治の代名詞ともなっていった。・・・ニコライ1世の抑圧的な態度は専制の維持という観点から徹底したものであり、皇帝は皇帝官房第三部の報告を隅々まで読み、細かな事項に至るまで自ら指示を与えた」。

 「帝国膨張の南下政策を進めた結果、クリミア戦争(1853年~1856年)に至った。イギリス・フランス・オスマン帝国さらにサルディニアとも戦った大規模な戦争であった。クリミア戦争の結果、ロシアは一部の領土を失い、海軍力も衰えた。

 クリミア戦争の敗北はロシアの支配階級に大きな危機感を抱かせ、帝国弱体化の責任は既存の国家体制の『立ち遅れ』に求められた。近代化(工業化)による経済発展、積極的な社会改革こそがロシアを救うと考えられた。ニコライ1世を継いだアレクサンドル2世(1855年1881年)は、農奴制度の廃止などの重要な改革を実施した。アレクサンドル2世自身は、『下から起こるよりは、上から起こった方がはるかによい』という言葉が示すとおり、国家の西欧化改革を慎重に採用していくことで、伝統的な専制支配を延命させることが出来るという考えで改革に臨んだ」(Wikipediaを再構成)。

 

 「農奴解放令によって農奴でなくなった人は、2,250万人であったが、農民はすこしも幸福にならなかった。耕作していたものは、平均して従来の土地の5分の2を(引用者注:地主たちに)切り取られてしまった。さらに哀れなのは、地主の世帯内にいた家内農奴であった。彼らは土地なしに解放されたので、地主の家を一歩出たら失業者であった。モスクワだけでもそういう人間が8万人いた。以前のように使ってくれる地主もいたが、多くはひまをだした。都市の工場が増えて労働者として雇ってくれはしたか、全部ではなかった。失業者が多いので労賃は安くなった。

 土地は神様のものだが、土地を使う権利は耕すものにあるという信念を持ち続けてきたロシアの農民は、耕す土地を取り戻そうとした。1861年から63年までの間に2,000件の農民一揆があった。中央ロシアとボルガ中流地帯、リトアニア白ロシアウクライナ、ウラルと各地におこった。

 皇帝の命令はにせものだ、ほんとうの自由をよこせと叫んで、農民は地主の土地を占拠し、地主の家に放火し、地主へのいっさいの義務を拒絶した。政府は各地に軍隊をだして鎮圧した。(中略)

 農奴解放にたいする農民の不満は、ただ力によってだけ押さえつけられていたのだった。このロシアの危機を何によって解決すべきか? 政府が解決できないとすれば、どうすればいいのか?」(松田 道雄『世界の歴史22 ロシア革命』)。

断章540

 デカブリストの乱から3年。

 「1828年、ふたりの少年がモスクワ市をみおろせる雀が丘の上に立っていた。眼下をまがりくねって流れるモスクワ川には小さな舟が浮かび、地平線にシルエットをみせている多数の教会の尖塔や円屋根は落陽にかがやいていた。木造の民家は夕もやのなかにかすんで、川原の雑草のかなたに没していた。

 少年のひとりは16歳で、アレクサンドル・イヴァーノヴィッチ・ゲルツェンといった。ひいでた額とかがやく大きな目をしている。もうひとりの少年はひとつ年下でニコライ・プラトノヴィッチ・オガリョフといい、高い鼻ときざみの深い二重のまぶたをもっていた。その服装からふたりとも貴族の子であることが、すぐわかった。

 このふたりは、ごく最近知り合った遠い親戚だ。ふたりを近づけたものは、お互いのよく似た環境であった。ゲルツェンは、父が母と正式の結婚をしていなかった。広い屋敷の1階と2階とに別居している父母は、和解しなくなってからながい。父の母にたいする態度、家のなかにいる奴隷にたいする態度、ともにゲルツェンは反感をもっていた。愛読しているシラーが、ゲルツェンに人間の尊厳をおしえていたからだ。

 オガリョフもまた父に憎悪に近い感情をもっていた。早く母を失ったオガリョフは、かつて父の農奴であり、いま土地の管理を託されている婦人の家にあずけられていた。この婦人は信心ぶかく教育もあった。フランス人やドイツ人の家庭教師が何人もついていたのは、ゲルツェンとおなじだった。オガリョフのいちばんいやなのは、大勢の面前で父が農奴を気に入らないといって、殴りつけることであった。

 ゲルツェンはオガリョフがシラーを読んでいるのを知って喜んでしまった。長いこと、そういう友だちをさがしていたのだった。さらにオガリョフが、印刷することを禁じられているプーシュキンやルイレーエフの詩をそらんじているのを知ったとき、ゲルツェンは歓喜してオガリョフを抱いたほどだった。わたしたちはデカブリストを知っているのだ。なぜデカブリストの貴族たちは処刑されたり、流刑になったりしたかを知っているのだ。そうだ、わたしたちは皇帝を頭にいただくロシアの専制政治に反対なのだ。ふたりの少年は、モスクワの街を見おろしながら、ふたりだけの誓いをたてた。『わたしたちの生命を、わたしたちの選んだ戦いのためにささげよう』。

 この日から雀が丘は、ふたりのための祈りの場所になった。一年に一、ニ度はきっとこの『神聖な丘』に行ってふたりは誓いをかためた。そしてふたりは生涯その誓いを破らなかった。ゲルツェンもオガリョフも、ロシアの革命のために、たたかい、流刑になり、亡命し、助け合いながら異国に死んだ。ゲルツェンもオガリョフも神を信じなかった。神を信じるかわりに革命を信じた。革命だけが地上に正義をもたらし、人類を救済するものであった。義によって革命のためにたたかうのは、知によって生きる知識人でなければならぬ。

 奴隷が鞭打たれることに胸をいため、女が売られることを恥じる精神の貴族、それが革命家だ。では、救われるべき人民はどこにいるのか。人民は眼下の薄暮にけむるモスクワの陋屋(ろうおく)にいる。モスクワをこえて、バルト海から太平洋に広がる広大な母なるロシアの上にいる。人民は、しいたげられ、鞭打たれながら黙って働いている。蛮族タタールの侵入以来の重荷を、その熊のような頑丈な両肩にささえて耐えている。人民は神を信じている。人民は皇帝を信じている。ふたりの少年が革命を信じるよりも深く信じている。酔ったときは獣のようになりはするが、その敬虔と忍耐とで、どの民族にも劣ることのないロシアの人民は、いつ神を信じることをやめて革命を信じるだろうか」(松田 道雄『世界の歴史22 ロシア革命』から引用)。

 

 ロシアは、ロシア国民にとって、「母なるルーシ」であり、「神々の土地」だという。

 皇帝ダース・プーチンへのロシア国民の“支持”を見ると、「母なるルーシ」(あるいは「神々の土地」)は、現代ロシアにおいても重要な意味を持ち続けているようだ ―― 欧米とは、「母なるルーシ」を傷つけ、「神々の土地」を穢(けが)す奴らだと、プロパガンダされている。

 「『母なるルーシ』とは、ロシアの歴史と文化の中で非常に重要な概念である。この概念は、古代ルーシ(キエフ・ルーシ)の時代にさかのぼる。

 当時のルーシ人は自分たちの祖国を『母なるルーシ』と呼び、彼らのアイデンティティ愛国心の中心として位置づけた。彼らは、祖国を育て、守り、繁栄させるために尽力し、それを称えることで自分たち自身の存在価値を高めることができた。19世紀には、民族主義者たちがこの概念を再解釈し、ロシア人の民族的アイデンティティと結びつけた」(ChatGpt)。

 

 「果てなき大地は 深く凍りつき 優しい土は もの言わず ただ雪を抱いて眠る ・・・やがて来る春は 誰も見たことのないような 素晴らしい春だろう 見渡す限りの 花咲く大地よ お前に託そう この愛」(『神々の土地』♪)

断章539

 革命(思想)は、空から降ってはこない。

 レーニンロシア共産党ボリシェビキ)の革命(思想)は、彼らの時代=彼らの社会のどのような問題に対する、どのような解決策であり、その解決策は諸問題をきちんと解決できたのか? 

 

 「ロシアでは11~12世紀までは、農民の大部分は自由で自治を享受していたといわれる。しかし、13~15世紀の間に徐々に農奴化され、1497年と1550年の『法令』によって『聖ユーリの日 (旧暦 11月 26日) 』の前後2週間以外、農民がその土地から離れることが禁止されるようになり、イワン4世 (雷帝) によってこれも事実上廃止されてしまった。

 このような農民の土地への緊縛は、1649年の会議法典で確立し、次いで1723年ピョートル1世(大帝) によって奴隷 (ホロープ) と同様に農奴にも人頭税が課せられるようになり、それまでの農奴と奴隷の区別もなくなり、完全に不自由な農奴となった。

 18世紀になるとこれら農奴は、(1) 国有地農民、(2) 王室領地農民、(3) 地主領農民、(4) 農奴占有工場農民の4つに区分されるようになった。(3) の地主領農民は最も悲惨で、家族と切り離されたり土地と別に売買されたり、さらに地主の一方的意志で軍隊にやられたり、シベリアへ流されたりした。

 このような農民はときとして地主や政府に対して一揆を起したが、なかでも 17~18世紀の I・I・ボロストニコフ、ステンカ・ラージン、E・I・プガチョーフの乱が有名である。ようやく19世紀に入って、農民を家族から切り離して売ったり、土地をつけないで競売にしたりすることが禁じられ、また1842年の法令で地主に金を支払って解放される者も出てきた。しかし、農奴の悲惨な状態は1861年の“農奴解放令”発布まで基本的には大きく変ることがなかったし、その後も、農民たちの権利が十分に保障されることはなかった」(ブリタニカ国際大百科事典などを再構成)。

 

 そのような「ロシアの政治文化では次のような点が強調されてきた。民主主義よりも絶対主義、強い指導者を求める願望や無政府状態への恐怖(ロシアは巨大で扱いにくい帝国であって、無政府状態と国内の反対が帝国を解体しかねないという恐怖が深刻であった)、侵略の恐怖(何世紀にもわたってロシアは、近隣諸国を侵略し、また侵略されてきた、地理的に脆弱な大陸国家であった)、後発性についての不安と恥じらい(ピョートル大帝以来、ロシアは国際競争に活力を持っていることを証明しようとし続けてきた)、そして秘密性(ロシア人の生活の貧しい部分を隠蔽しようとする願い)などである」(ジョセフ・S・ナイ ジュニア, デイヴィッド・A・ウェルチ)。

 

 「1825年、ナポレオン戦争に従軍してフランスまで行き、パリ滞在中、フランス議会の討論会や自由主義的な雰囲気を持つ大学の講義を聴講したり、政治的意見を掲載する新聞を読むなどして、ヨーロッパ諸国の政治・社会制度に触れ、祖国ロシアのそれと比較して格段の進歩を遂げていることに衝撃を受け、また、戦争に従軍している農民出身の多くの兵士に直接接して、彼らの境遇の劣悪さを肌で感じ、国家・社会の改革を強く意識するようになったロシアの青年(貴族)将校たちは、“デカブリストの乱”を起こした。

 しかし、反乱は鎮圧され、数百人の参加者が逮捕され、裁判にかけられた。裁判では、反乱に関与した者たちは、革命的な活動や帝国に対する反逆罪などで有罪判決を受けた。その後、有罪判決を受けたデカブリストの一部は、処刑された。彼らはエカチェリーナ広場に連行され、処刑された。一方、他の参加者たちはシベリアなどに流刑にされた。

 デカブリストの処刑は、ロシア帝国において政治犯に対する厳しい処罰の象徴となった。ロシア帝国においては、反体制派・農民反乱に対する弾圧は非常に厳しく、政府は反逆者を徹底的に取り締まることで、反政府運動を鎮圧しようとした」(Wikipediaなどを再構成)。

断章538

 2022年11月、「国連」の世界人口推計は、世界の総人口が80億人を突破したと明らかにした。1950年の世界人口は、およそ25億人だったという。世界人口はまだしばらく増大するが、19・20世紀のような経済成長と生活向上は、困難になるかもしれない。というのは、資源(エネルギー)探索と食糧増産は続いているが無限ではない。「人口増加や気候変動により、近年、世界的な食料不足が問題になっているが、ロシアのウクライナ侵攻で、事態は一気に深刻化した。穀物価格は高騰し、途上国では暴動も勃発している。そして、食料の多くを輸入に頼る日本でも、憂慮すべき事態が進行している。長きにわたる減反政策で米の生産が大きく減り続け、余剰も備蓄もない状態なのだ」(山下 一仁)。

 また新たにAI化・ロボット化が進みつつある。「経済のより広範なレベルがデジタルの影響を受ける。何百万人もの人々が職を失ったり、収入を減らしたりするなか、貧富の格差はさらに拡大するだろう。将来のサプライチェーンショックを防ぐために、先進国の企業は低コスト地域から高コストの国内市場に生産を戻す。しかし、この傾向は、国内の労働者を助けるのではなく、自動化・AI化をさらに加速させ、賃金に下押し圧力をかけ、ポピュリズムナショナリズム、排外主義の炎をさらにあおるだろう」(ヌリエル・ルービニ)。

 だから、わたしたちは、大混乱・大波乱・大変化に備えなければならないのである。

 

 ところが、「左翼」インテリ・大学知識人たちは、この大混乱・大波乱・大変化に対して、まるで「馬鹿の一つ覚え」(ある一つの事だけを覚え込んで、どんな場合にも得意になって言いたてること)のように、かつてマルクスレーニンが見た“コミュニズムという夢”(別名を“資本主義の終焉”という)を呼び起こし、担ぎ上げることで答えている。

 

 周知のように、「20世紀は人類が最も多くの血を流し、激しく憎しみあう時代になった。20世紀は妄想の政治とおぞましい殺人の世紀でもあった。過去に例を見ない規模で狂気が制度化され、まるで大量生産を思わせる組織的なやり方で人間が殺された。人類を幸福にするはずの科学の可能性と、実際に歯止めがかけられなくなった政治の邪悪さは、恐ろしいほど対照的である。人類の歴史を振り返っても、殺人がこれほどあちこちで起こり、多くの人命が失われたことはなかった。不合理な目的のために、特定の人間を絶滅させるべく、これほど集中的かつ持続的な努力が傾けられたこともなかった。

 たしかに、これまでも暴力が猖獗(しょうけつ)をきわめた時代はあった。中世には、中央アジア遊牧民の大集団が中央ヨーロッパを席巻し、中東にまで進出して多くの人命を犠牲にした。当時の人口が今よりずっと少なかったことを考えると、その死亡率は現在よりもはるかに高かったと言える。しかし、このほかの暴力が激化した例を見ても、それらは基本的には突発事件だった ―― 激しい暴力のために多くの血が流されたが、それは持続しなかったのである。大量虐殺、とりわけ非戦闘員のそれは、力の対立や征服と直接結びついたものであり、念入りな計画にもとづく一貫した方針にそって行われたわけではなかった。

 20世紀という時代が政治史に悲惨な足跡を残したとすれば、まさに念入りな計画にもとづく一貫した方針によって大量虐殺が行われたことなのである」(ズビグネフ・ブレジンスキー)。

 そこには、マルクスの、レーニンの、スターリンの、毛沢東の、ポル=ポトの、金 正日の“御名”による“革命事業”の膨大な犠牲者が含まれている。

 だが、「左翼」インテリ・大学知識人たちは、「なにもかもスターリンが悪かった」、あるいは「レーニンから疑え」、あるいは「問題の始まりはエンゲルス」と片づけることで、今もなお、マルクスの“問題解決策”は有効であるかのような宣伝をしているのである。

 言い換えれば、「マルクス主義の名のもとに革命が行われれば、たとえそれが専制支配へと堕落しても、その過誤は、異端的偏向にこそ帰せられるべきであるが、マルクスにもその正統的解釈者にも帰せられない ―― これが、〈聖職者〉としての知識人に典型的な(引用者:救いがたい)思考様式である」(レイモン・アロン)。

 

 「プロレタリアート独裁によって、生産手段を社会化(最初は国有化)し、計画経済による経済運営を通じて社会主義に進んでゆく」という、マルクスの“問題解決策”は、誤りである。

断章537

 マルクスは、近代市民社会を解剖して、それを動かしているエンジンである資本制生産様式の機能・構造・終焉を明らかにした、と主張した。

 マルクスの言葉を借りれば、「私の業績に関する限り、近代社会における階級の存在を発見し、さらにその階級闘争を発見したことは、なんら自分の貢献ではありません。ブルジョワ歴史家がすでに私のまえに、この階級闘争の歴史的発展を暴露し、ブルジョワ経済学者はこれら諸階級の経済的解剖を試みていたからです。私があらたに成しとげた業績は、つぎの点を明らかにしたことにあるのです。⑴ 諸階級の存在は、生産の発達に制約された特定の歴史的諸闘争にのみ関連している。⑵ 階級闘争は、必然的にプロレタリアートの独裁にみちびくこと。⑶ この独裁はすべての階級が廃絶される無階級社会への過渡期を構成するにすぎないこと」を、主張したのだ。

 

 マルクスの「コミュニズム=地上の楽園」と、それに至る唯一の道、すなわち、「敵のせん滅をめざす非妥協的な総力戦であるブルジョワジープロレタリアートの融和なき階級闘争は、否応なく必然的にプロレタリアートの独裁にみちびく」という根本思想は、ドイツ社会民主党第二インターナショナルにおいては、“伏せられ”、“人目につかないようにされ”、“ひそかに”語られていた。

 

 第一次世界大戦の惨禍と第二インターナショナルの破産という暗黒の舞台でスポットライトに照らされたのは、レーニンロシア社会民主労働党ボリシェビキ)だった。

 第一次世界大戦に寄せて、レーニンは、こう書いた。「帝国主義帝国主義戦争とがつくりだす袋小路から人類を脱出させることができるのは、プロレタリア革命だけである」「プロレタリアートの社会革命は、生産手段と流通手段との私的所有を社会的所有に代え、社会の全成員の福祉と全面的発展とを保障するために社会的生産過程の計画的組織化を実施することによって、諸階級への社会の分裂をなくし、こうして抑圧されている人類全体を解放するであろう」。

 

 本当の危機の時代、「動乱の時代に突入して、すべての人間が方針を失い、おろおろとあわてふためき、右往左往している。まさしくその時に、ある人物が、一人立ち上がって、衆目の中、こぶしを高く掲げて、大音声をあたりに轟かせて、きっぱりと宣言してしまう力。それこそが、まさしく政治の力というものである」(副島 隆彦)。

 第一次世界大戦のむせかえるような血と硝煙の匂いのなかで、極論すれば、レーニンロシア共産党社会民主労働党から改名)だけが、マルクスの理論の核心を公然と宣伝したのである。

 では、それからどうなったのか? それはなぜか?

断章536

 マルクスの理論は、「近代市民社会を解剖して、(その経済システムである)資本制生産様式の構造・機能・終焉を明らかにした」というものであった。この資本制生産様式という経済システムは、それ以前と比較して、たとえるなら、漕ぎ船を動かす人力や木造帆船を動かす風力と異なり、鉄船を動かすことができる(パワーに満ちた)エンジンである。

 資本制生産様式〈資本主義〉が呼び出した巨大な生産力により、「20世紀は、医学、栄養学、近代的な通信手段など、人間生活の物質的な側面に直接関係する分野で、かつてないほど飛躍的に科学が進歩した時代である。伝染病、幼児の死亡率、さまざまな疾病の罹患率は劇的に減少し、世界の多くの地域で平均寿命が30%から50%も伸びた」(ズビグネフ・ブレジンスキー)。

 とはいえ、19世紀当時も、経済発展や人口増加は各国間でまちまち(不均等)だった。

 1870年から1910年にかけてのイギリスの人口は、約3,100万人から約4,400万人へと増加した。同時期のフランスの人口は、約3,800万人から約4,300万人に増加。一方、同時期のドイツの人口は、約4,100万人から約6,500万人へと増加した。

 

 ドイツ社会民主党SPD)は、創設当初からマルクスの影響を受けていた。初期の指導者の多くは、マルクスの理論を学び、SPDは、マルクスの理論に基づく社会主義政党として発展した。

 「ドイツ社会民主党の党員数は1906年6月30日の時点で38万4327人だったが、1907年7月31日には53万466人、1910年6月30日には72万38人、1912年6月30日に97万0112人、そして1914年3月31日には108万5905人に達した。社民党と密接な関係を持っていた自由労働組合も1913年には組合員250万人を突破している。自由労働組合社民党の支持母体の中でも随一の存在だった。

 1912年の帝国議会選挙でSPD社民党は得票率34.8%を獲得して得票の上でも議席の上でも第1党となった。……無数の社会団体やスポーツクラブ、新聞などを保有して文化面での活動も広げていった」(Wikipedia)。

 

 けれども、この急速な党勢拡大と引き換えに、SPDでは、理論と実践の劣化 ―― マルクスの理論は“通俗化”(たとえば窮乏化法則のごとく)され、実践は目先の日常活動への“埋没”(選挙活動・集票のために) ―― が進んでいた。

 エンゲルスは、すでに「1891年のエルフルト綱領の草案を読んだ時点で、『党は社会主義者鎮圧法復活への恐怖から日和見主義に走っている』とし、党に蔓延する社会改良主義を牽制した。ドイツにおいて合法的に掲げることは難しいことは認めつつも、労働者階級が支配権を握るための前提条件とする共和制の要求や小邦分立主義とプロイセン主義の除去によるドイツ再編成(ドイツ統一共和国)の要求が書かれていないことなどを批判」(Wikipedia)していた。しかし、当時のSPD指導部は、「今は合法的活動と党組織の拡充に専念し、来たるべき体制の危機に備える」という「待機主義」を続けた。

 

 SPDは、国際的にも第二インターナショナルにおける最大の社会主義政党であり、第2インターナショナル加盟政党の模範たる存在だった。

 「第二インターナショナルは、1900年、1904年、1907年と大会を開くたびに戦争反対の決議をした。とくに1907年のシュツットガルト大会では、⑴ 戦争は資本主義の本質に根ざす。⑵ 戦争が起こると、その最大の被害者は兵士、また軍需工場に動員され物価騰貴に悩まされる労働者である。⑶ だから各国の労働者階級と議会におけるその代表者は、インターナショナルの統制と協力のもとに、最も有効な手段で戦争防止に全力をつくす義務がある。ただし、その方法は国家の情勢次第で違っていて差し支えない。⑷ にもかかわらず戦争が起こったら、速やかに戦争を終結させる努力をするとともに、全力をあげて戦争による経済的政治的危機を利用し、資本主義的階級支配の撤廃を促進すべき義務を負う、との決議がなされた。

 ところが、実際に戦争が起こると、各国の社会主義政党はことごとく戦争支持に転向したのである」(『国家と経済』)。

 

 マルクスは、資本制生産様式の矛盾の爆発を周期的恐慌に見ていた。しかし、1873年の激しい恐慌後は、中央銀行の積極的な金融政策や独占の形成によって、その“周期性”は、目立たなくなった。その代わりに現れたのは、不況と階級対立の慢性化であった。

 先進各国での、慢性化する不況と階級対立への不安や台頭する新興国への恐怖など、イライラ・焦りのネガティブな感情は、“排外主義”となって、第一次世界大戦で爆発したのだ。

 

 「第一次世界大戦の犠牲者は、戦闘員および民間人の犠牲者の総計として約3,700万人が記録されている。……これは人類の歴史上、最も犠牲者数が多い戦争の1つと位置付けられている。また、少なくとも戦争を起因とする疾病によって亡くなった者(戦病死者)は200万人、行方不明者は600万人とされている。(中略)

 惨禍の一端は、『ソンムの戦い』 ―― 1916年7月1日から11月19日までフランス北部・ソンム河畔での、イギリス軍・フランス軍によるドイツ軍に対する大攻勢 ―― に見ることができる。ソンムの戦い第一次世界大戦で損害の最も大きい戦闘であった。

攻勢初日、7月1日の攻撃は失敗に終わる。イギリス軍は戦死19,240人、戦傷57,470人ほかの損失を被った。これは戦闘1日の被害としては大戦中でもっとも多い。

 ソンムでの一連の戦闘でイギリス軍498,000人、フランス軍195,000人、ドイツ軍420,000人という膨大な損害を出したが、いずれの側にも決定的な成果がなく、連合軍が11km余り前進するにとどまった。……ソンムの戦いが開始した7月1日はイギリスで記念されており、イギリスの歴史家ジョン・キーガンは1998年に、『イギリスにとって、ソンムの戦いは20世紀最大の軍事悲劇であり、その歴史全体においてもそうである。(中略)ソンムの戦いは命をなげうって戦うことを楽観的に見る時代の終結を意味した。そして、イギリスはその時代には二度と戻らなかった』と述べている」(Wikipediaを再構成)。