断章315

 「近ごろでは、ヒトと類人猿の近縁関係はしだいに受け容れられてきている。たしかに、人間が自らを特異な存在とする主張が出尽くすことはけっしてないだろうが、そうした独自性の主張で10年以上もつものはめったにない。ここ数千年の技術の進歩に幻惑されることなくヒトという種を眺めたときに目に入るのは、血と肉からできた生き物で、その脳は大きさがチンパンジーのものの3倍あるとはいえ、新しいパーツはまったく含んでいない。私たちの自慢の前頭前皮質でさえ、他の霊長類と比べれば標準的な大きさでしかない。人間の知性の卓越性を疑うものはいないとはいえ、私たちの基本的欲望や欲求で、近縁の動物たちにも見られないものなどひとつとしてない。サルも類人猿もヒトとまったく同じで、権力を獲得するために骨を折り、セックスを楽しみ、安全と親愛の情を求め、縄張りを巡って相手を殺し、信頼と協力を重んじる。もちろん人間にはコンピューターや飛行機があるが、私たちの精神構造は他の社会的な霊長類の精神構造のままだ」(『道徳性の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)。

 

 しかし、ヒトによる“殺人”を見れば ―― 例えば、凄惨な茨城殺人事件で逮捕された男(まだ容疑者である)は、少年時代に連続通り魔事件を起こしたいわくつきの男である。週刊誌によれば、「人を殺してみたかった」と供述したらしい。あるいは、名古屋大学の女子大生が知人女性(当時77歳)を殺害した殺人事件。「子供のころから人を殺してみたかった」と供述している。昨22日のニュースでは、中米エルサルバドルの法務・治安省は21日、北西部チャルチュアパで8日に女性2人の殺人容疑などで逮捕された元警察官の自宅庭から、少なくとも8人の遺体が発見されたことを明らかにした。地元報道によると、容疑者は47人を埋めたと話しているといい、さらに増える可能性が高い。逮捕されたのはウゴ・オソリオチャベス容疑者(51)。2010年に強姦(ごうかん)罪などで服役していた刑務所を出所。直後から女性を拉致した上で暴行を加え、殺害していったとみられる ―― 、心穏やかではいられない。

 

 「私たちは誰かが非道な振る舞いを見せると、『獣(けだもの)のような』などと口走ってしまう。だが、その手の比喩は『恐ろしい侮辱』だ ―― 動物たちに対して! 人間は崇高で理性的・道徳的であり、動物はすべて衝動を抑えられず、本能の命ずるままに勝手放題のことをしているというのは、たいへんな勘違いであり思い上がりなのだ。動物に身近に接している人、そして、人間をよく観察している人なら、人間と動物の境界(とりわけ霊長類との境界)が、そこまで単純で確固たるものでないのを知っているはずだ」(『道徳性の起源』訳者あとがきから)。

断章314

 「家族の起源」「社会の起源」「攻撃性と葛藤解決」「文化の起源」などは、まずサルに聞けである。

 

 「ヒトに最も近い類人猿には、シンボルを理解し操作する能力があり、ヒトと同じ水準でないにしても類似の思考能力がある。(中略)

 言語は、情報を共有すべき社会集団の出現と、のどの構造の変化さえ起これば、現在のチンパンジーやピグミーチンパンジーなみの認知能力で可能ということになる。

 家族の起源、複雑な道具の制作と使用の技術の伝達、右手の利き手としての確立、喉頭の位置の変化が、有節言語の出現と密接な関係があるだろう。利他行動としての情報の伝達は、親子や、兄弟姉妹、夫婦の間で芽生えるべきである。道具使用の複雑なスキルの問題がなければ、言語は必要なかっただろう。道具製作と右利きは、言語中枢が左脳にあることと関係があるだろう。まず間違いなく、言語を話し始めたのは女性であり、母親であった。かれらは左手で赤ん坊を抱き、右手では石器を使って堅果や地下茎を叩き割ったのである。こういった推測は当てずっぽうでなく、霊長類学の根拠がある。・・・チンパンジーはメスの方がオスより道具の使用に高い能率を示す。また母親のチンパンジーは、小さい赤ん坊を左腕で抱くことが多い。そして、人間の女性は男性より高い言語能力を示す」(『人間性はどこから来たか』西田 利貞)。

 

 「類人猿の食物分配は、独立個体間にも頻繁に生じ、しかも〈惜しみ〉が見られることで、多くの動物に見られる親から子への給餌行動や求愛行動の一環としての食餌行動と区別できるし、しなければならない。

 〈惜しみ〉とは、接近個体を避ける、分配反応が遅れる、少量または質的に低いものを接近個体に取らせるといった、食物保持者の『消極的態度』を示す。

 〈惜しみ〉の行動要素を人間がしたら、私たちはその人物を〈けち〉とか〈意地汚い〉とか躊躇なく評価するだろう。それは、食物を分け与えるものと考えているからである。同じく、類人猿の食物保持者は、〈惜しみながら〉、〈嫌々ながら〉相手に一部を取らせる。私たちは、その態度に何を読みとれるだろうか? その態度は少なくとも、彼らが、食物の〈価値〉がわかっていること、にもかかわらず、食物への〈欲求を断念〉していることを同時に、明瞭に示している。

 チンパンジー属の食物分配をみると、これまで考えられていた以上に、チンパンジー属の食物分配は社会学的に深い意味をもっていることが見えてくる。たとえば、食物を保持している個体の欲求の断念過程を分析的に追うことによって、欲求する自己の抑制が生じていること、欲求と分配行為の乖離から、チンパンジーボノボなりの自己の客観視や他者理解のありようを推測することができる。その結果は、動物心理学実験・人工言語訓練等で明らかにされてきたチンパンジー属の認知能力と整合するだけでなく、類人猿の実際の社会交渉がそうした認知力によっていることを裏付けるのである。

 さらに、食物分配の交渉を追っていくと、チンパンジーボノボの社会ではすでに、〈価値〉や〈所有〉や〈信頼〉がそれなりの萌芽形態で機能していると気づくし、〈欲求の断念〉が食物をコミュニケーションのメディアにすることや、逆に断念が作用しない、共同性の喜びが分配と連動する〈コムニタス的食物分配〉(引用者注:コムニタスとは、争いがなく居心地のよい集団のこと)といった、食物分配とひとくくりできない諸相のあることが明瞭になってくる。付け加えておくと、動物界の食物分配として引き合いに出される、オオカミの全員での獲物の消費には、これらいずれの特性も認められない。

 食物分配は類人猿においても、欲求する自己と他者の欲求がわかる自己との葛藤をもたらす。この〈自己の二重化〉は、〈自我意識〉にほかならない。こうして展開していくと、チンパンジーボノボの社会が萌芽的な自己の客観視や自我意識をもった者たちが作る社会であることがわかってくる」(黒田 末寿の論考を再構成)。

断章313

 さる14日、「丹波の山ザル」が死んだ。

 「世界的な霊長類学者で、兵庫県人と自然の博物館名誉館長、京都大名誉教授の河合雅雄氏が14日午前、老衰のため丹波篠山市の自宅で死去した。97歳。丹波篠山市出身。故・今西錦司氏の門下で生態学と人類学を専攻し、アフリカで霊長類進化学を研究。(中略)

 野外調査に重点を置いて、芋洗い行動などニホンザルの社会構造を解明し、サル学の権威として海外でも知られた。(中略)

 終生『丹波の山ザル』を自称した」(2021/05/15 神戸新聞)。

 「児童文学も執筆。現代社会で子どもが集団行動を通じて想像力や社会性を養う環境が薄れつつあることに警鐘を鳴らした」(2021/05/15 日本経済新聞)。

 

 人間はどこから来たのか。人間とは何なのか。そもそも人間とはいかなる存在なのか。このような問いに答えようと思ったら、サル学を知るべきである。「サル学」は、人間(ヒト)の本性(普遍本質)の深い理解に不可欠な学問である。

 

 「チンパンジーの社会は、アルファオス(第一順位のオス)を頂点としたきびしい階級社会で、下位(下っ端)のサルはいつも周囲に気をつかい、グルーミング(毛づくろい)などをして上位のサルの歓心を得ようと必死だ。

 そんなチンパンジーの群れで、順位の低いサルを選んでエサを投げ与えたとしよう。そこにアルファオスが通りかかったら、いったいなにが起きるだろうか。

 アルファオスは地位が高く身体も大きいのだから、下っ端のエサを横取りしそうだ。だが意外なことに、アルファオスは下位のサルに向かって掌を上に差し出す。これは『物乞いのポーズ』で、“ボス”は自分よりはるかに格下のサルに分け前をねだるのだ。

 このことは、チンパンジーの世界にも先取権があることを示している。序列にかかわらずエサは先に見つけたサルの“所有物”で、ボスであってもその“権利”を侵害することは許されない。すなわち、チンパンジーの社会には(自由の基盤である)私的所有権(引用者注:のようなもの)がある。

 二つめの実験では、真ん中をガラス窓で仕切った部屋に2頭のチンパンジーを入れ、それぞれにエサを与える。このとき両者にキュウリを与えると、どちらも喜んで食べる。ところがそのうちの一頭のエサをブドウに変えると、これまでおいしそうにキュウリを食べていたもう一頭は、いきなり手にしていたキュウリを投げつけて怒り出す。

 自分のエサを取り上げられたわけではないのだから、本来ならここで怒り出すのはヘンだ(イヌやネコなら気にもしないだろう)。ところがチンパンジーは、ガラスの向こうの相手が自分よりも優遇されていることが許せない。

 これはチンパンジーの社会に平等の原理があることを示している。自分と相手はたまたまそこに居合わせただけだから、原理的に対等だ。自分だけが一方的に不当に扱われるのは平等の原則に反するので、チンパンジーはこの“差別”に抗議してキュウリを壁に投げつけて怒るのだ。

 三つめの実験では、異なる群れから選んだ2頭のチンパンジーを四角いテーブルの両端に座らせ、どちらも手が届く真ん中にリンゴを置く。初対面の2頭はリンゴを奪い合い、先に手にした方が食べるが、同じことを何度も繰り返すうちにどちらか一方がリンゴに手を出さなくなる。

 このことは、身体の大きさなどさまざまな要因でチンパンジーのあいだにごく自然に序列(階層)が生まれることを示している。いちど序列が決まると、“目下の者”は“目上の者”に従わなければならない。ヒトの社会と同じく、組織(共同体)の掟を乱す行動は許されないのだ。

 このようにチンパンジーの世界にも、『自由』『平等』『共同体』の正義がある。相手がこの〈原理〉を蹂躙すると、チンパンジーは怒りに我を忘れて相手に殴りかかったり、群れの仲間に不正を訴えて正義を回復しようとする。興味深いことに、自由主義、平等主義、共同体主義はいずれも『チンパンジーの正義』とつながっているのだ」(橘 玲)。

断章312

 孫 正義は、ばくち打ちになった。本人自ら、そう認めている。

 ソフトバンクグループ(SBG)は、アメリカのアップルに次ぐ世界第2位の巨額利益を得た。だが目下のところ、マーケットの答えは、ソフトバンクグループの株価“急落”である。

 

 「ソフトバンクグループは12日、2021年3月期の連結純利益が4兆9879億円になったと発表した。韓国ネット通販大手クーパンの上場などがけん引し、日本企業として過去最大の純利益を計上。世界的にも米アップルに次ぐ2位の巨額利益を得たことになる。

 会見した孫 正義会長は、巨額の利益を得たことに『たまたま』を3度繰り返して、上場した投資先企業が人気を集めたことなどが偶然重なったためだと結論づけた。

 しかし同時に、自身は『5兆円や6兆円で満足する男ではない。反省点が分かっていれば成長余地はある。製造業のように上場企業を生み出していく』と、成長加速へ貪欲な姿を強調した。

 前期のファンド事業の投資利益は7兆5290億円。3月にニューヨーク証券取引所NYSE)に上場したクーパンの評価益が2兆5978億円と巨額になり、外部投資家の持ち分増減額を控除した投資利益も4兆268億円と、前期の1兆4125億円の赤字から一転大幅に黒字化した。

 会長は業績の大きな振れについて『この先も株価の上下で(業績は)上がったり下がったりする。ソフトバンクグループにとって、1~2兆円の利益や赤字はニューノーマルだ』と解説。『〈孫はばくち打ちになった〉と思う人もいるだろう。ひとつの正しい見方で否定はしないが、AI革命に強い関心を持ち、先端技術の学習を継続している』と主張した。

 同社は今期業績見通しを『未確定な要素が多い』として開示していないが、会長は21年中に投資先の上場企業数が『昨年を大きく上回ると見込んでいる。すでに準備中だ』と明らかにした」(2021/05/12 ロイター通信)。

 

 「4月の米消費者物価指数(CPI)の総合指数が前年比で約12年半ぶりの大幅な伸びとなったことを受けて、アメリカで“インフレ”懸念が台頭し、予想よりも早期に利上げが実施される可能性があるとの懸念から、米国株式市場は主要3指数が大幅続落した」(2021/05/13 ロイター通信)。SBGの主な投資先企業は、IT企業や新興企業なので、マーケットの先行きに不安が出れば、SBGの業績見通しは疑問視される。それでなくとも、大借金を抱えているので、1株利益が2,600円あっても1株あたりの配当は44円(配当利回り0.52%)という「しぶちん」である ―― 傘下の通信会社ソフトバンクは1株利益100円ほどだが、1株あたりの配当は大盤振る舞いの86円(配当利回り6.1%)という親孝行ぶりである。

 

 「世界は人為的につくられた流動性で溢れている。この流動性の恩恵(引用者注:すべての資産価格の上昇)を受けることができた人たちは笑いが止まらない状態だ。各国中央銀行は、経済をコントロールし、危機を『好きなように』止めることができると信じて自己満足に陥っている。しかし、急激なインフレが発生すれば、中央銀行は最終的に利上げを余儀なくされ、過大なレバレッジをかけてゾンビ化した企業や債務超過でゾンビ化した欧州諸国は連鎖的に倒れるだろう。金融市場の完全な混乱によって世界が不況か恐慌に陥るのは明らかだ」(3/4 石原 順から抜粋・再構成)。

 

 SBGの主戦場であるアメリカのマーケットが崩落すれば、ばくち打ち・孫 正義のSBGは、バブル崩壊後の日本の金融機関のように国民の税金による救済措置(なにしろ「大きすぎて潰せない」)を与えられることになるのだろうか・・・。

断章311

 二兎を追う者は一兎をも得ず(にとをおうものはいっとをもえず)。

 欲を出して同時に二つのことをうまくやろうとすると、結局はどちらも失敗することのたとえ。「中国の故事か何かに由来していそうだが、実は古代ギリシア起源で欧州に広く分布することわざという。日本には明治に入ってきて、修身の教科書で広まったらしい」(2019/12/13 毎日新聞)。

 

 諸外国に比べ、国民が、手洗い・マスク・うがい・外出自粛を徹底することで、欧米ほどにはコロナ感染爆発がなかった。すると、危機管理が下手くそ(つねに後手後手のうえに朝令暮改を繰り返す)なくせになぜか自信過剰 ―― 既得権益層を代表する政治エリートはいつの時代どこの国でもおおむねすべてそうだが  ―― な菅政権は、二兎を追おうとした。コロナ防疫と「専門家による『Go To』事業停止の訴えを無視して、昨年の12月初旬には、『Go Toトラベル』の2021年6月までの延長の決定」である。

 しかし、「中世ヨーロッパで大流行したペストにしても、第1次大戦中に世界中に拡大したスペイン風邪にしても、過去の歴史が教訓として示しているのは、人々の移動の増加が感染症拡大の主たる原因になっているということです。菅首相は今でも『Go Toトラベルが感染拡大の原因であるとのエビデンスは存在しない』との立場を堅持していますが、歴史の教訓はエビデンスと同等の価値を持っているはずです。(中略)

 結局のところ、コロナ対策の大失敗が経済をいっそうダメにしてしまった」(中原 圭介)。

 税金を投入して「感染拡大」をし、その「後始末」にまた税金を投入することになった。

 

 「イスラエルはコロナを国家的危機ととらえ、感染症危機管理に奔走してきた」。そして、「世界最速で新型コロナウイルスのワクチン接種を進めたイスラエルは、成人のワクチン接種をほぼ完了し『移動の自由』を取り戻しつつある。それでもイスラエルはコロナへの警戒を緩めていない。2回接種完了した国民に必要であれば3回目も接種できるよう、世界でいち早く2022年のワクチン供給につきファイザー社と契約締結した。(中略)

 ワクチン開発のためには産官学の垣根、そして国境も超えた連携が必須であることがコロナでは明らかになった。しかし日本に遺伝子ワクチンのようなバイオイノベーションを生み育てる力は不十分だった。新型コロナ対応・民間臨時調査会(コロナ民間臨調)報告書は、規制官庁としての厚労省にワクチンを戦略物資として育てる産業戦略が欠けていたこと(引用者注:そして日本のこれまでの政治家たちに国民を守るための危機意識と戦略が無かったこと)、結果としてコロナワクチンへの対応が『3周半遅れ』(政府関係者)になってしまったと指摘した」(2021/05/10 東洋経済API)。

 

 大地震など、「災厄のほとんどは誰のせいでもなく起こるものである。故に、誰かを責めてみたところで詮(せん)無いことである。しかし、その前後は違う。事が起こる前の準備、事が起こった後の始末、全て誰かの責任である。誰かとは即ち、これらの準備や始末をするために国民から選ばれた人たちのことである」(MAG2NEWS・山本 勝義)。

 エリートの誤った判断のせいで、国民の生存と生活が脅かされてはならない。

 

【参考】

 「新型コロナウイルスのワクチン開発で日本は米英中露ばかりか、ベトナムやインドにさえ後れを取っている。菅義偉首相が4月、米製薬大手ファイザーのトップに直々に掛け合って必要なワクチンを確保したほどだ。“ワクチン敗戦”の舞台裏をさぐると、副作用問題をめぐる国民の不信をぬぐえず、官の不作為に閉ざされた空白の30年が浮かび上がる。

 世界がワクチンの奪い合いの様相を強める中で、国産ワクチンはひとつも承認されていない。ところが、厚生労働省で医薬品業務にかかわる担当者は『米国や欧州ほどの感染爆発は起きていない。何がいけないのか』と開き直る。『海外である程度使われてから日本に導入したほうが安全性と有効性を見極められる』」とまで言う。

 1980年代まで日本のワクチン技術は高く、米国などに技術供与していた。新しいワクチンや技術の開発がほぼ途絶えるまでに衰退したのは、予防接種の副作用訴訟で92年、東京高裁が国に賠償を命じる判決を出してからだ。このとき『被害者救済に広く道を開いた画期的な判決』との世論が広がり、国は上告を断念した。1994年に予防接種法が改正されて予防接種は『努力義務』となり、副作用を恐れる保護者の判断などで接種率はみるみる下がっていった。

 さらに薬害エイズ事件が影を落とす。ワクチンと同じ『生物製剤』である血液製剤をめぐり事件当時の厚生省生物製剤課長が1996年に逮捕され、業務上過失致死罪で有罪判決を受けた。責任追及は当然だったが、同省内部では『何かあったら我々が詰め腹を切らされ、政治家は責任を取らない』(元職員)と不作為の口実にされた。

 いまや欧米で開発されたワクチンを数年から10年以上も遅れて国内承認する『ワクチン・ギャップ』が常態となった。国内で高齢者への接種が始まったファイザーのワクチンは厚労相が『特例承認』したものだが、これは海外ワクチンにだけ適用される手続きだ。

 日本ワクチンが歩みを止めている間、米国は2001年の炭疽菌事件を契機に公衆衛生危機への対応を進化させている。有事には保健福祉省(HHS)が中核となって関係省庁が一枚岩となり、製薬会社や研究機関と連携。ワクチン開発資金の支援や臨床試験(治験)、緊急使用許可といった政策の歯車が勢いよく回る。

 世界のワクチン市場の成長率は年7%近い。致死率の高い中東呼吸器症候群(MERS)、エボラ出血熱などに襲われるたびに新しいワクチンが編み出された。新型コロナで脚光を浴びた『メッセンジャーRNA(mRNA)』の遺伝子技術もワクチンへの応用研究は20年越しで進められていた。

 ワクチンは感染が広がらなければ需要がなく、民間企業だけでは手がけにくい。しかし日本では開発支援や買い取り、備蓄の機運は乏しい。北里大学の中山哲夫特任教授は『ワクチン・ギャップが生じるのはポリシー・ギャップがあるからだ』と政策の停滞を嘆く。(中略)

 研究者と技術は海外に流出している。あるウイルス学者は『日本は規制が多い一方、支援体制が貧弱だ』と指摘する。危険なウイルスを扱える実験施設は国内に2カ所しかなく、ひとつは周辺住民の反対で最近まで稼働しなかった。厚労省農水省文科省をまたぐ規制は複雑で、遺伝子組み換え実験は生態系への影響を防ぐ『カルタヘナ法』に縛られる。欧州は医薬品を同法の適用除外とし、米国は批准もしていない。(中略)

 国家の危機管理という原点を見失って漂流した30年の代償は大きい」(2021/05/09 日本経済新聞・高田 倫志 ※一部、引用者により補足)。

断章310

 「もし自由社会が、貧しい多数の人々を助けることができなければ、富める少数の人々も守ることができないだろう」(ジョン・F・ケネディ)。

 

 「コロナ緊急事態宣言が延長され対象地域も拡大されることで、新たに約1兆円の経済損失が生じるという試算が明らかになった。

 野村総合研究所の試算によると、緊急事態宣言が4都府県で20日間延長され、愛知、福岡も追加されることで、さらに1兆620億円の経済損失が生じるという。個人消費が落ち込むことが主な要因で、GDP国内総生産)は年率で0.19%押し下げられるとしている。先月25日から今月31日までの合計でみると、経済損失は1兆7600億円にのぼり、失業者は約7万人増加すると試算している」(2021/05/08 ANAニュース・ABEMA TIMES)。

 

 「国全体でもマイナスの影響はありますが、一番大きな問題は、困らない人と困る人の差が著しいことです。外食、宿泊、小売は1年間も厳しい立場に置かれています。協力金も支給が遅れており、私のところにも悲鳴が聞こえています。一方で年金生活者、公務員、テレワーカーは経済的には困っていません。一部の人に負担を押し付けている今のやり方ではこの問題は解消されません。政府は緊急事態宣言の副作用をもっと真剣に考えるべきです」(石川智久:日本総合研究所)。

 

 劣化したエリートは、悲劇を招く。

 例えば、ノモンハン事件を見よ。ノモンハン事件ソ連側の呼称・ハルハ河の戦闘)で日本軍と戦ったソ連軍指揮官・ジューコフ兵団長は、日本兵の評価を聞かれて、「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」と答えた。日本軍の高級将校は、無謀な作戦と過大な自己過信と敵への侮りの結果、戦いに惨敗した。生き残った兵たちはだれもが思った。「ああ、みんな死んでしまったなあ」。

 

 あるアマゾンレビュワーは、『ノモンハンの夏』(文春文庫)のレビューに、「高級将校の無責任な体質は、現代日本においても明らかに受け継がれているのは、東日本大震災の際に東電の高級役員が家族を海外に退避させるとか、事故を起こしておきながらその原発を海外に輸出させようとするような狂気の沙汰をみても明らかである。だからきっと、このままでは日本はまた同じような轍を踏むことになるだろう」と書いた。

断章309

 戦前の日本は、欧米からの圧力に対抗し、民族・国家を守り、前進し、生き延びるために欧米に追いつくことに必死だった。アジアの大国になったが、代償は軍国主義だった。明治から大正、昭和へと続いた成功に酔い、夜郎自大になった日本のエスタブリッシュメント既得権益層)とくに軍部エリートは、対米戦争に賭けて負けた。

 まるで、「売り家と唐様で書く三代目(うりいえとからようでかくさんだいめ)」のように ―― 初代が苦心して財産を残しても、3代目にもなると初代の苦労を忘れて遊び呆け、ついに家を売りに出すほどに没落するが、その「売り家」という売り札の筆跡はしゃれた今風である ―― 。

 

 戦後の日本は、経済を復興して輸出で金を稼ぎ、アメリカのような豊かさを手に入れることに必死だった。冷戦という国際情勢にも恵まれて経済的には成功したが、代償はエコノミック・アニマルへの惑溺(わくでき)だった。そしてまたもや、日本のエスタブリッシュメントは、成功に酔って夜郎自大になって、敗北しつつある。

 

 戦前の日本では、軍による統帥権(引用者注:大日本帝国憲法下の日本における軍隊を指揮監督する最高権限)の独立により、巨大な政治現象としての戦争というものの研究を陸海軍大学が独占・秘匿していた。国民は、「国家戦略」や「防衛戦略」から疎外されていた。

 一方、戦後日本では、エコノミック・アニマルは、経済利益を優先するので、「国家」としてのプライド(誇り)や原理原則(プリンシプル)を後回しにする。また、「国家戦略」や「防衛戦略」もおろそかにされた。

 さらに、「戦後の日本では、滔々(とうとう)たるマルクス的平和論の中ではとうていそんなことをする雰囲気でもなかったし、また、教えてくれる先生もいなかった」ので、「先進国の大学で、戦略や軍事と題した講義を聞けない国は日本だけ」(『戦略的思考とは何か』岡崎 久彦)ということになった。

 そうして、日本には「戦略」がないという評価が定着したのである。「しかし、日本が自らの意思にかかわらず戦争に直面せざるをえない場合を考えておくのは、平和を望む者にとって、ごくふつうの教養の一部ではないだろうか?」(岡崎 久彦)。