断章291
“資本”こそが、最強の王である。コロナ禍があろうと、米中対立があろうと、“資本”の世界制覇、すなわちグローバリズムは進んで行く。なぜなら、後進国の貧しい民衆の、「先進国の生活水準に追いついて、より豊かな暮らしがしたい」という願いを叶えることができるのは、“資本”の自由な運動による経済発展だけだからである。
かつて貧困から脱却するために、民衆は厳しい全体主義支配(スターリンや毛沢東)や厳格な軍国主義の支配さえ甘受した。しかし、歴史が示した教訓は、“資本”の自由な運動を認め、個人の私的欲望を解き放つことが、急速な経済発展の一番の近道だということである(「改革開放」後の中国を見よ!)。
中近東やアフリカには、“資本”の自由な運動を阻害する旧習や宗教的タブーが多くある。しかし、あきらめることを知らない“資本”は、扉をこじ開け、さまざまな手立てをつくして、それらの国々にも浸透していく ―― そして、どうしようもない“失敗国家”の貧しい民衆は、人口爆発に背中を押され、豊かな生活を夢見て先進国への命がけの移民・移住を試みている。
“資本”が最強の王である時代には、ナショナル・アイデンティティ(あるいは国民意識)は、希薄化せざるをえない。“資本”と親和的なイデオロギーは、コスモポリタニズムだからである ―― 外国人があなたの会社のボスになり、外国人があなたの娘の夫になる。
「コスモポリタニズムとは、全ての人間は、国家や民族といった枠組みの価値観に囚われることなく、ただ一つのコミュニティに所属すべきだとする考え方である。世界市民主義・世界主義とも呼ばれる。コスモポリタニズムに賛同する人々をコスモポリタンと呼ぶ」(WIKI)。
かかるナショナル・アイデンティティ(あるいは国民意識)の希薄化、ないしは危機から免れることは難しい。寡頭専制のロシアはナショナリズムとロシア正教(宗教)の強化によって、全体主義の中国は民族共産主義の教化によって、韓国は「反日」官製民族主義の宣伝で対応しようとしている。アメリカは大きな分断を抱え込んでいる。
では、日本はどうか? 第二次世界大戦の敗戦と戦後民主主義によるアノミー(社会の規範が弛緩・崩壊することなどによる、無規範状態や無規則状態)から抜け出すことは、決して容易なことではない。日本人のナショナル・アイデンティティ(あるいは国民意識)を、カビ臭い復古主義や「武士道」で蘇らせることは、もはや無理であろう ―― 「武士道」にしても、「江戸時代の武士は戦国時代のご先祖の遺族年金として禄を食んでいるだけの年金生活者でした。軍人としても官僚としても実務能力を備えていませんでした。武士道などという言葉すらほとんど使われず、武士道は明治になってから、新渡戸稲造が西洋の騎士道に似たものがあったとして半ば捏造(ねつぞう)したものです」(八幡 和夫)という見解があり、映画『切腹』に見られるように、中世武士と戦国武士と江戸家臣団と西国下級武士では大きすぎる違いがある。
日本人のナショナル・アイデンティティ(あるいは国民意識)は、このグローバリズムの荒波に洗われた後に、なおかろうじて残ったものの中からしか再興されないだろう。それがどんなものか、まだ誰もわからないと、わたしは思う。
【参考】
「新渡戸稲造(1862~1933)は、1899年に著した『武士道』において、西欧のキリスト教に代わりうる日本的な倫理の基礎を『武士道』に求めた。新渡戸のいう『武士道』とは、キリスト教のように教義体系とはならず、日常生活の規範を形作っている。『それは時には語られず、また書かれることもない作法である。それだけに、実際の行動にあっては強力な拘束力を持ち、人々の心に刻み込まれた掟である』。そして、このいわば『沈黙の規範』の背景をなしているものは、仏教からくる運命観、神道からくる自然崇拝・先祖崇拝、そして儒教からくる道徳観、これらの混融だと新渡戸は述べるのである。だが彼はまた次のように述べる。
『めざましいデモクラシーの滔々たる流れはそれだけで武士道の残滓を飲み込んでしまう勢いを持っている』。だから、確かに『武士道の余命はあといくばくもないように見える』と。
しかしまた新渡戸はこの書物の結びにおいて、それにもかかわらず武士道の記憶は保持され、いつかは蘇生するだろうという期待を書きしるさざるをえなかった。『武士道は一つの道徳の掟としては消滅するかもしれない。しかしその光と栄誉はその廃墟を越えて蘇生するに違いない。何世代か後に、武士道の習慣が忘れられ、その名が忘れられるときがきても、路辺に立ちて眺めやれば、その香りは遠く離れた、見えない丘から風に漂ってくるだろう』と」(佐伯 啓思)。