断章260

 「20世紀の幕が下りる頃、ファシズム共産主義自由主義イデオロギー上の激しい戦いは、自由主義の圧勝に終わったかに見えた。民主政治、人権、自由市場資本主義が全世界を制覇することを運命づけられているように思えた。だが例によって、歴史は意外な展開を見せ、ファシズム共産主義が崩壊した後、今度は自由主義が窮地に陥っている。では、私たちはどこに向かっているのか?」(ユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons』)

 「わたしたちは、1930年代的危機に際会している」(レイ・ダリオ)のだとすれば、「ファシズム共産主義自由主義による三つどもえの激しい戦いの再来になるだろう」と、わたしは答える。だから、『「経済人」の終わり』を読んでいる。

 

 以下、『「経済人」の終わり』第6章を引用・紹介をする。P・ドラッカーは、ファシズム全体主義経済の要諦を《完全雇用》であると明かした。

 「ドイツとイタリアのファシズム全体主義において、最も重要でありながら最も知られていない側面が、個々の人間の位置と役割を、経済的な満足、報酬、報奨ではなく、非経済的な満足、報酬、報奨によって規定していることである。

 産業社会の脱経済化はファシズム全体主義が目指す奇跡である。それは産業社会を脱経済化することによって、不平等たらざるをえない産業社会の維持を可能にしかつ妥当なものにしようとする。これは、少なくともドイツにおいては緊急の課題だった。1932年には、ドイツはもはやブルジョワ資本主義を続けることが不可能になっていた。(中略)

 ドイツ人の大多数がマルクス社会主義に対する大戦直後の信頼を失っていた。しかしブルジョワ資本主義にも絶望していた。彼らは、ブルジョワ資本主義への復帰もマルクス社会主義の革命も望んでいなかった。絶望のあまり、混乱さえ望んでいた。そして何よりも、階級闘争なるものが行き先のない無意味なものであることを知っていた。(中略)

 ファシズムに関わるいくつかの疑問は、当時のドイツとイタリアに課されていたこのような課題から説明することができる。いかなる階級が、ファシズムを権力の座につけたかとの問いには意味がない。いかなる階級も、それだけではファシズムに権力を与えることができなかった。産業家がヒトラームッソリーニの後ろ盾になったとの説は、大衆が支持したという説と同様、間違いである。(中略)

 ヒトラーを支持したものは、下層中流階級、肉体労働者、農民など、当時の社会の不合理と悪魔性に苦しめられていた層だった。ナチスの資金の4分の3は、1930年以降でさえ農民や失業者が毎週支払う党費や、大衆集会への参加費によって賄われていた。

 ファシズム全体主義は資本主義と社会主義のいずれをも無効と断定しそれら二つの主義を超えて経済的要因に依らない社会の実現を追求する。(中略)

 ファシズム全体主義は、私的利潤を中心にすえるブルジョワ資本主義だけでなく、私的利潤を否定するマルクス社会主義をも敵視する。両者に対する同時の敵視という矛盾した点に、ばかばかしいながらもファシズム全体主義の本質が正しく現れている。(中略)

 ファシズム全体主義は、社会的な必要に迫られて、生産のための機構を維持しつつ、非経済的な秩序と満足を中心にすえる脱経済至上主義社会を創造しなければならなくなった。その第一歩は、社会の恵まれない層に対し、恵まれた層の特権だった非経済的な贅沢を与えることだった。それは就業時間外の組織活動を通じて行われた。ドイツでは『楽しみの力』プログラムであり、イタリアでは『労働後』プログラムである。

 歓心を買うための褒美が用意された。演劇、オペラ、コンサートの切符、アルプスや外国への旅行、冬場の地中海やアフリカ、夏場のノルカップ岬への船旅などである。

 こうして、富と権力を持つ有閑階級特有の非経済的な『誇示的浪費』の機会を提供する。いずれも、経済的には価値がなくとも、社会的な地位を表すうえではきわめて大きな意味をもつ。経済的な不平等を補い、社会的な平等を実現する。厳存する経済的不平等を我慢させるうえで大きな役割を果たす。

 しかし、それら非経済的な報奨には、経済的な不平等そのものを意味ある必然のものに変えてみせるまでの力はない。問題の緩和には役立っても、問題そのものを解決し、なくすことはできない。これが、経済的に不平等な階級の間にも調和が必要であるとする社会有機体説が再び登場してくる所以である。(中略)

 今日のファシズム全体主義理論においては、諸々の階級は相互に補完し合うべき経済単位とされるだけではない。それぞれの経済的な役割、貢献、必要性とは関係なく、それぞれが実際に独立した社会的位置、役割、存在とされている。

 例えば、ドイツでは、農民は『民族の背骨』なる特別の地位を付与され、社会的な特権を与えられている。(中略)

 小農は、特別の法令によって保護され、諸々の演説、催事、祝祭において賞賛されるだけではない。町育ちの少年少女に彼らの下で一定期間働くことを命ずることによって、その地位を著しく高められている。(中略)

 他の階級についても、社会的位置は経済的な位置から分離された。しかもその社会的位置は、経済的な位置とは関係のない領域において規定されている。労働者階級の社会的地位、重要度、平等性は、メーデーを労働祝日と定め、かつそれをナチズムにおける最も重要な祝日とすることによって象徴された。農民が『民族の背骨』であるならば、労働者は『民族の精神』である。経済的地位などとは関係なく、いつでも自らを犠牲にする用意があり自己規律に富み禁欲的にして強靭な精神を持つ『英雄人』なる理想的人間像である。

 ブルジョワ階級にも、その地位を象徴するものとして、さらに別の非経済的地位が与えられている。彼らは『文化の担い手』である。企業家階級に対してさえ、英雄的概念としての『指導者原理』による相応の社会的位置が与えられている。

 ファシスト市民軍、突撃隊、親衛隊、ヒトラー青年団、各種婦人団体などの準軍事組織もまた、すべて非経済的目的のためのものである。それらの組織は、経済的に恵まれない層の人間が命令し、恵まれた層がそれに従うという生活場面を与える。いずれの準軍事組織でも、職場の長やその息子は、党歴が若干でも長い肉体労働者の下に、意図的に配属される。ドイツ国内では、適正と信頼性のみによって選抜されるはずの党幹部養成機関『指導者養成所』には、金持ちの子供は入れないことが常識である。

 私は、ナチス党内で高い地位にあるドイツ人産業家と、ローマ進撃前からムッソリーニ支持者であるイタリア人銀行家から、いずれも子供は陸軍の幼年学校に入れるつもりだといわれたことがある。さもなければ、ファシスト少年団に入れざるをえなくなり、上級生や同級生から手のこんだいじめを受けることは避けられないとのことだった。(中略)

 このような非経済的な優越性の発揮の仕組みと、階級間の妬みによるいじめは、成功している。それは、社会の下層において社会的な平等感をもたらすうえで役立っている。(中略)

 理屈のうえでは、経済的不平等を補うために社会的平等を用意することはできる。

 しかし、全体主義の各種の準軍事組織が、規模こそ成長し、社会的な嫉妬心の満足をますます重視しているにもかかわらず、徐々に影響力を失いつつあることは、観念だけで社会を構築することのできないことを明らかにした。とはいえ、それら準軍事組織は、非経済的な社会の基盤となるものが何であるかは示した。すなわち国そのものの軍国主義化だった。

 あらゆる経済活動と社会活動を軍事体制下に置くという軍国主義は、産業社会の形態を維持しつつ社会に対し非経済的な基盤を与えるという、きわめて重要な社会的役割を果たしうる。しかも同時に、完全雇用をもたらし、失業という魔物を退治する役割を果たす。(中略)

 ファシズム全体主義の体制は、資本主義でないことは明らかである。それはまさに所有と経営抜きの生産体制である。すべてが軍事的要請と軍事的機関に従属させられている。

 例えば、いかなる農地も分離分割が許されなくなった。分割、売却、担保差し入れは許されない。農民は農地にとどまらなければならない。移動はできなくなった。農地の交換もできない。しかも、農業社会の維持を正当化するための準軍事組織が、農民に対し完全な服従と命令の遵守を要求する。農民は、命令されたものを生産しなければならない。命令に背けば軍法会議である。そして、自らの生産した農産物を行政の命ずる価格で軍たる政府に売却しなければならない。農民は、社会的地位は守られたが経済的自立は奪われた。(中略)

 ファシズム全体主義社会は、経済目的を二義的に扱う。そこで、ファシズム全体主義そのものの有効性を問う前に、そのような社会において経済の実体はいかなるものになるか、経済を従属的な位置に置いたままその破局を防ぐことはできるか、という疑問に答えておかなければならない。(中略)

 ファシズム全体主義経済がブルジョワ資本主義経済と根本的に異なるところは、前者が、あらゆる経済目的を、ある一つの社会目的の手段として位置づけているところにある。すなわち完全雇用である。国民所得の増大や経済発展は結果にすぎない。〈中略〉

 ファシズム全体主義経済の奇跡は、もっぱら労働者階級の犠牲によって行われたとの説がある。現実は違う。(中略)

 実際は、犠牲を払わされているのは労働者階級以外の階級である。彼らは得るべき利益を強奪され、生活水準の低下を強いられている。今日生活水準の引き下げは、かつてその水準が高かった者、経済的に恵まれていた者ほど幅が大きい。(中略)

 最下層の人たちの経済状態はファシズム全体主義経済のもとで改善している。失業していた未熟練労働者や半熟練労働者は完全雇用政策によって助けられたし、労働者階級全体としての所得も増えた。ドイツでは一人ひとりの労働者の所得も減ってはいない。イタリアでもほとんど減っていない。(中略)

 企業利益は増大している。しかしほとんどの場合、経営者個人の所得は大幅に減少している。高い税率を課されるうえに、感謝の気持ちとして国と党に対する献金によって貢献することが期待されている。人によっては、所得税とは別に支払わされる現金が所得の40%にのぼる。しかも暗に伝えられてくる献金を値切ることは節税よりも難しい。献金の期待額について不服申し立ての道はない。こうしてファシズム全体主義国では、消費を4分の1削減し資本財生産への投資を倍増させた。(中略)

 完全雇用達成のために、ファシズム全体主義経済においては、消費の削減に加えて遊休設備と預貯金の活用が行われた。

 第一に、民間企業は資本市場から資金を調達することを事実上禁じられ、政府が長期資本市場を独占することになった。こうして民需生産への追加投資が不可能となった。

 第二に、あらゆる銀行と保険会社が公債の購入を強制された。製造業者も、内部留保の取り崩しによる公債の購入を命じられた。政府からの支払いも公債によって行われた。

 第三に、企業は資本財生産への投資を強制された。各種の輸入代替産業、製鉄所、石炭液化工場への資本参加である。

 ドイツとイタリアという2つのファシズム全体主義国において、その主たる目標としての完全雇用は実現された。かつての失業者のかなりの部分が、経済活動ではなく軍や党で働いているにすぎないとの指摘は、完全雇用政策の成功をいささかも傷つけない。事実の問題として、彼らは生産活動において生産的な仕事をするのと同じように、自分たちが意義ある仕事についているものと信じている。このことに意味がある。

 ファシズム全体主義社会は脱経済至上主義社会である。その目的は、軍国主義のための軍事的自足である」。