断章173
「アレクサンドル・ソルジェニーツィンの小説を読んだ人なら誰もが知っているとおり、共産主義の平等主義の理想は、日常生活のあらゆる側面を支配しようと試みる残酷な専制政治を生み出した」(『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ)
東京大学大学院経済学研究科教授・小野塚 知二によれば、「資本主義的な生産関係(ことに生産手段の私的所有)が、生産力の発展にそぐわなくなると、個人的所有が回復され自由な諸個人間の自覚的・目的意識的な協同性(association)が構築される社会主義(socialism)的生産様式が登場し、さらに生産力が発展すると、人類史の新しい段階に照応する新たな共同体が回復されて共産主義(communism)的生産様式が登場するという考え方が20世紀前半から中葉にかけて流行しました。つまり、原始共産制、貢納制、奴隷制、封建制、資本制のあとには社会主義や共産主義が取って代わるのだという見通しないし願望が論じられ、また実践されもしたのです。しかし、中国の文化大革命やカンボジアのポル・ポト政権の共産主義の『実験』の無惨な失敗やソヴィエトをはじめとした中東欧の計画・統制経済的な社会主義体制の解体と、計画・統制的社会主義とは異なる自主管理社会主義を標榜したユーゴスラビアのやはり無惨な解体過程を経て、資本主義の後に社会主義や共産主義が訪れるという見通しはもはや共有されえなくなりました」(『経済史』)ということらしい。
小野塚は、ここでは当然欠かすことのできない「プロレタリアート独裁」や「アジア的生産様式」をめぐる論争や帰結について、慎重に回避している。
それは、かつて日本共産党が自らに“まつろわぬ者たち”に投げつけた「反党、反社会主義」という“レッテル”(注:「このレッテルを貼られた人間達にとって如何なる重圧となっていたのかを知ることは、今や難しくなっている」福本 勝清)の“トラウマ”が、東京大学にも今もなお残っているからだろうか?
【補】
もはや“マボロシ~”なユーゴ「自主管理社会主義」であるが、その真の姿を2点ほど復習しておこう。
「ユーゴスラビアのチトー大統領は、スターリンとチャーチルのバルカン半島勢力分割案に従わず、ギリシャの共産主義革命闘争を支援し続けました。チトーというと、『自主管理社会主義』とか『ユーロコミュニズム』と結びつけられて、西側に近いイメージがもたれていますが、ギリシャに関しては、スターリン以上に冒険主義で極左だったのです」(『大国の掟』佐藤 優)。
1944年に国連統治地域に指定されたイタリア半島最北東部で、チトーが強行したのは「民族浄化」だった。「まず初めに見境なく、この地方の住人だったイタリア人を拉致し、あの地方には数多い、山中に深く切られた崖穴のそばまで連行する。そして、鉄の鎖でつないだこの人々の最初の2人に銃弾を撃ちこんで穴に突き落とせば、つながれた他の人々も自動的に落ちていく、というやり方で殺したのである。この惨劇は、チトーの思惑どおりにたちまち、現スロヴェニアの南部と、当時はダルマツィアと呼ばれていた現クロアツィアの海岸地帯に住むイタリア人の間に知れわたった。恐怖に駆られた人々は、ある者は山岳地帯を抜け、別の人々は漁船に命を託して、イタリア目がけて逃げたのである。こうしてイタリア人は一掃され、代わって、スラブ民族が移ってきた」(塩野 七生)。