断章351

 「B.C.5000年には、植え付けた作物と家畜に主として依存した農業集落の最初の証拠」がある。定住して人口が増え、農耕・牧畜を行なえば、大集落で人間と家畜が密集することになる。

 

 すると、「農業のため、新たな家畜の牧草地のために土地を開くことで、まったく新しい景観が作り出され、まったく新しい生態学的ニッチ(Wikipedia:ニッチは、生物学では生態的地位を意味する。ひとつの種が利用する、あるまとまった範囲の環境要因のこと)が生まれた。日照が増え、土壌が露出して、そこに新しい植物、動物、昆虫、そして微生物がどっと移ってきて、それまでの生態系のパターンをかき乱した。

 定住とそれによって可能となった群集状態は、どれほど大きく評価してもしすぎにはならない。なにしろ、ホモ・サピエンスに特異的に適応した微生物による感染症は、ほぼすべてがこの1万年の間に ―― しかも、おそらくその多くは過去5000年のうちに ―― 出現しているのだ。これは強い意味での『文明効果』だった。コレラ天然痘おたふく風邪、麻疹、インフルエンザ、水痘、そしておそらくマラリアなど、歴史的に新しいこうした疾患は、都市化が始まったから、農業が始まったからこそ生じたものだ。

 人間と動物が、近い距離で継続的に接触し合うようになったことで、広範な感染性生物が急速に共有されるようになった。推定値はさまざまだが、現在わかっているだけで1400種あるヒトの病原菌のうち、800~900種はヒト以外の宿主を起源とする動物原性感染症だとされている。そして、ホモ・サピエンスは最後の『行き止まり』の宿主だ。

 病気は、いったん定住地人口の風土病になってしまうと致死率が大きく下がり、大半の保菌者にはほとんど症状が出ないままで流通する。この時点で、この病原菌に曝露したことがなく、ほとんど免疫のない者が、この風土病を持っている人たちと接触すると、その人たちだけが脆弱ということになる。だから、それまで群衆免疫の枠外にいた戦争捕虜や奴隷、移民、あるいは孤立した村落などは、定住人口の大半が長い時間をかけて免疫を獲得してきた病気をうまく防げないで、罹患する確率が高い。

 旧世界と新世界の遭遇がネイティブ・アメリカンにとって大惨事となったのも、もちろんこれが理由だった。彼らは旧世界の病原菌から1万年以上も隔離されていて、まったく免疫がなかったのである。

 種を超える動物原生感染症の新世代は、人間と動物の個体数が増え、長距離接触の頻度が上がるのに合わせて成長していった。それは現在も続いている。だから中国南東部、具体的には広東省が、新型の鳥インフルエンザ豚インフルエンザの世界最大の培養皿となってきたことも、さして驚きではない。あの地域にはホモ・サピエンス、ブタ、ニワトリ、ガチョウ、アヒル、そして世界の野生動物の市場がどこよりも大規模に、どこよりも高い密度で、しかも歴史的に最も集中してきた地域なのだ」(『反穀物の人類史』を抜粋・再構成)。

断章350

 農耕を始めたばかりの頃は、同棲を始めた頃のようなものだ。農耕に集中するとは決めておらず、彼女と結婚するとは決めていない。

 というのは、「採集できる野生の食物がふんだんにあり、毎年水鳥やガゼルが渡ってきて狩りができているあいだは、わざわざリスクを冒して、労働集約的な農耕や家畜の飼育に大きく依存する理由は ―― ましてやそれだけに依存してしまう理由は ―― まったく考えられなかったということだ。豊かなモザイクのような資源に囲まれていること、そしてそのおかげで、単一の技術や食料源に特化するのを避けられることこそが、自分たちの安全と相対的な豊かさを保障する最善の方法だった」(ジェームズ・C・スコット)からだ。

 

 しかし、甘い同棲生活も、彼女が妊娠すれば現実に目覚める。生活のためにフリーターをやめて定職につき結婚して籍を入れる。

 肥沃な恵まれた土地で「定住」を続ければ、人口が増大する。もはや「遊動域」は拡大できないのだから、農耕に力を入れなければ食い詰める。

 

 初期の農耕は、焼き畑・菜園耕作などの初歩的なものだった。しかし、世代を重ね、知識と経験を増やすなかで、農耕技術は進化していった。

 継続は力なり。「段々よくなる法華の太鼓」である ―― 「段々よくなる法華の太鼓」の元々の意味は、日蓮宗法華宗で「うちわ太鼓」を叩きながら「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることが、最初はぎこちなくても長く練習を重ねてゆくうちに非常にリズミカルに叩けるようになること。

 そこから、最初はぎこちなくても繰り返していると良い感じになること全般を、「段々よくなる法華の太鼓」と言うようになった。

 

 農耕という生業(なりわい)様式は、狩猟採集とは違い、労働力の増加による労働集約度の向上によって「単位面積あたりの生産量を増加させる性質」がある。農耕が生みだした農産物〈余剰〉は、人間生活に劇的な変化をもたらした。例えば、大集落ができて、対内的には階層化・格差が拡大した。対外的には、より良い条件の土地支配を巡る“戦争”が増えたと思う ―― 時代は異なるが、日本の倭国大乱のようなすさまじい戦いがあったに違いない。

断章349

 氷河期の終わりと安定した温暖な気候の始まりという条件下で、「食域拡大」と「定住」を契機として、森林伐採や野生穀類の採集や野生動物の家畜化が始まった。

 「いわゆる農耕の発生は、B.C.7000年頃で、世界的な共時性があるが、その種類は、西アジアオオムギ・コムギ、中国の雑穀・コメ、タイの根茎類?、メキシコのヒョウタン・カボチャ・トウモロコシと、まったく異なる(したがって、一カ所から他の地域に農耕技術が伝播したとは考えにくい)」(『狩猟採集から農耕社会へ』原 俊彦)。

 実は、「あらゆる野生の動植物の中で栽培化や家畜化ができる種類は、驚くほど少なく、たまたま栽培化や家畜化ができる希少な動植物が存在した地域は、食糧生産や余剰食料、人口増大、技術革新、国家政府の樹立を押し進めるにあたり、圧倒的に有利だった」(ジャレド・ダイアモンド)。農耕の開始は共時的でも、もともと栽培化しやすい穀物や豆類が自生し家畜化しやすい野生動物が多くいた地域は、その後大きく成長できたのである。

 

 「いったん農耕が始まると、B.C.6500年頃には小規模な町が生まれ、B.C.5000年までにメソポタミア南部には数百の町があり、完全に作物化した穀物が主食として栽培されていた。B.C.4000年になると敷地を壁で囲った原始的な『都市』が登場する」(ジェームズ・C・スコット)。

 

 「これまでの人類は野生の動植物に頼る獲得経済を行なっていたが、農耕・牧畜の開始によって生産経済の時代に入った。これは人類にとって真の革命といえ、近代の産業革命以前の最大の革命であり、人類に与えた影響ははかりしれない。生産経済によって人類は自然に働きかけ、これをある程度コントロールし、自力で生活を発展させることができるようになった。人類の社会も文明もこれ以後大きく発展することになる。そして現在にいたるまで、農耕・牧畜の生産経済は人類の生活と文明の基礎となっているのである」(世界の歴史マップ)。

断章348

 人間(ヒト)は、〈際限のない欲望〉を持っている。しかし、生存戦略上で有利であれば、人間はそれを秘匿したり、自己抑制することができる。「サヨク」知識人が、耳ざわりのよい「きれい事」だけを書くのは、その方がマスコミ受けがよくて原稿料・印税を手にしやすいからである。また、本当の事を書くと立場上なにかとまずいからである。皮相な「平和愛好家」である彼らは、人類の歴史が「戦争の歴史」であることに目をふさぐ。だが、戦争や軍事について知ることは、生産や金融について知ることと同様に、普遍本質的な〈人間〉理解のために必要である。

 

 ジャレド・ダイアモンドは、「戦争とは、敵対する異なる政治集団にそれぞれ属するグループのあいだで繰り返される暴力行為のうち、当該集団全体の一般意志として容認、発動される暴力行為である」と定義する。

 但し、もっと一般的用語として使ってもさしつかえない、とわたしは思う。ヤクザに「広島戦争」「大阪戦争」があり、「ビジネスホテル戦争」や「貿易戦争」もある。

 

 戦争が絶えたことはない。たとえば、「南ドイツのタールハイムで出土した紀元前5000年頃の人骨34体のうち18体の遺体には、頭蓋骨の右後側頭部の表面に自然治癒の痕跡がない傷跡があり、調べたところ、この人々は右利きの人間たちによって背後から6本以上の斧で殴られたことが原因で死亡したことがわかった。犠牲者には、幼児から60歳ほどの男性までが含まれており、年齢層はひじょうに幅広い。どうやら6家族ほどで構成された集団が、より多人数の集団の攻撃を受け、全員が一気に虐殺されてしまったようだ」(『昨日までの世界』)。

 

 大型動物を狩り尽くし、残り少ない大型動物を追うために「遊動域」を広げれば、そこかしこで出会う別集団(それは得体の知れない「他者」であり「敵」であった)との不断の軋轢(あつれき)は避けられなかった。狩猟採集のための「遊動」は、リスクが大きくコストの高くつく生業(なりわい)になった。

 ちょうどそのころ、狩猟採集民は氷河期の終わりと安定した温暖な気候の始まりという好条件に恵まれた。その環境下で、生存と繁殖のために狩猟採集民がとった新たな生存戦略は、恵まれた肥沃な土地(とくに大河流域や河口部)で「ピンからキリまで食えるものは何でも食うという食域拡大」と「定住」だった。

 

 「遊動生活」では、ひとりで持ち運べるわずかなモノをもつだけの 、みんなが“平等”な社会だった。ところが、恵まれた肥沃な土地で野生穀類にまで食域を拡大した「定住」生活では、働き者ぞろいの大家族やたまたま住んだ所が絶好のロケーションだった家族は〈余剰〉を貯めることができる、“格差”社会になっていった。「何かを得るためには何かを失わなければならない」のである。

 

 「ピンからキリまで食えるものは何でも食うという食域拡大」と「定住」は、栽培化や家畜化ができる希少な動植物を見つけ、栽培化や家畜化を試みることにつながった。何事も初めは難しい。しかし、時々やってくる災害から生き延びるためにも栽培化や家畜化の試みは継続し、9500年前~7500年前頃(B.C7500~5500)には農耕と家畜の飼育が始まったという。

断章347

 「夢や幻ではなく現実を直視して、今ここで戦い、力強く生きよ」。

 現代世界(そして現代日本)のさまざまな諸問題(諸個別現象)を根本から正しく読み解くためには、〈人間〉についての普遍本質的な理解が必要である。

 〈人間〉の普遍本質についての理解を深めるためには、700万年におよぶ人類(ヒト)史の大半を占める先史時代についての考古学・人類学・疫学・生物学などの最新の知見を学ぶことも必要である。

 「サヨク」学者が、現代世界(そして現代日本)のさまざまな諸問題(諸個別現象)を底の浅い常套的な紋切型 ―― 「国家が悪い」、「資本主義のせいだ」 ―― で評論するだけに終始することは、史的唯物論の“公式” ―― 先史時代は原始共同体(原始共産制)で 階級がなかった ―― にあぐらをかいて先史時代(社会)のファクトを軽視することと同根なのである。

 複眼的考察の欠如による〈人間〉の普遍本質理解の不十分さ。その結果、「サヨク」学者たちは、いつまでも「ポエムに満ちた巨大な空虚」(ユートピア)としての「共産主義」を待ち続けることになる。

 

 狩猟採集生活の「遊動」から「定住」への移り変わりは、大きな変化の始まりだった。とはいえ、そのことが直ちに「平和で、豊かで、安全・安心な」暮らしを意味したとは思えない。というのは、過去から続く問題群が、さらに「定住」には「定住」特有の問題が存在するからである。

 

 “戦争”が「定住」することできれいさっぱり無くなった、とは思えない。

 たとえば、ニューギニアの「定住」民であるダニ族で起きていたような“戦争”が継続していたとみるべきではないだろうか?

 「もっとも人口が多い部族のひとつであるダニ族の戦闘の特徴は、まず、待ち伏せと野戦の頻回さがある。この攻撃により犠牲者が出ることは少ないが、待ち伏せと野戦とのあいだに大虐殺がときどき起こり、部族が全滅するか、人口の相当分が殺戮されることが起こる。

 また、俗にいうところの部族戦争は、異部族間戦争ではなく、実際は部族内戦争であって、言語と文化を共有する同一部族の人々が敵味方の二手にわかれて戦う場合がほとんどである。そして、敵味方の集団は文化とアイデンティティが類似しているにもかかわらず、相手方の人間を非人間的な悪魔のような存在とみなしたりする。少年たちは、幼少期から戦闘の訓練を受け、つねに臨戦態勢にあれ、と教えられる。

 他集団との同盟は重要であるが、同盟関係は恒常的ではなく、同盟の組み合わせは頻繁に変化する。ひとつの暴力が新たな暴力を呼び起こす悪循環の原因の圧倒的大部分を占めるのが敵方への復讐心である。戦闘は、戦いが専門の成人男性の一部だけではなく、部族集落の全住民をまきこむ出来事である。すなわち、『非戦闘員』であるはずの女性や子供も、『戦闘員』である男性同様、意図的に殺害されうる。戦闘では集落が焼き払われ、略奪が横行する」(『昨日までの世界』ジャレド・ダイアモンド)。

 

 さらに、「村落での定住生活がもつ利点には、それに対応する欠点もある。たしかに人間は仲間とのつきあいを切望する。しかし、お互いの神経を逆なでもする。トーマス・グレガーがブラジルのメイナク・インディアンの研究において示しているように、個人のプライバシーの詮索が、小さな村に住む人たちの日常生活ではしょっちゅう話の種になる。メイナク族はお互いについてあまりにも知りすぎており、かえって害になっているように見える。かかとや尻の跡から、ある男女が立ち止まった場所や、道からそれて性的関係を結んだ場所を話題にすることができる。

 村に出入りすれば、かならず誰かに気づかれることになる。プライバシーを守るためには、小声で話さなければならない。草ぶきの壁には扉がないので筒抜けとなるからだ。村の中には、男性の場合だと性的不能早漏、女性の場合だと性交時のふるまいや、性器の大きさ、色、臭いなどをめぐるうるさいゴシップが満ち満ちているのである(引用者注:昔の日本の山村でも聞くような話である)。

 大勢で住めば、たしかに身の安全は保証される。しかし、つねに移動していて侵略者から逃れやすいことも身の安全につながる。大勢なら大規模な協同労働ができるというのは、たしかに利点ではある。しかし人間が集中すればするほど、獲物の供給量は減り天然資源が枯渇することになる」(『ヒトはなぜヒトを食べたか』を抜粋・再構成)。

断章346

 「定住は、穀物や動物の作物化・家畜化よりはるかに古く、穀物栽培がほとんど行われない環境で継続することも多かった。

 最初の大規模な定住地が生業のために依存したのは、圧倒的に湿地の資源であった」(『反穀物の人類史』ジェームズ・C・スコット)。

 

 メソポタミアは、ティグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野であり、過去のペルシアの一部であり、現在のイラクにあたる。古代のメソポタミアにはティグリス川とユーフラテス川がつくりだす広大な湿地が広がっていた。

 つまり、現在は「つるピカハゲ爺」でも、昔日から「つるピカハゲ爺」だったのではない、ということである。

 そこは、いわゆる「肥沃な三日月地帯」内だった。「肥沃な三日月地帯とは、古代オリエント史の文脈において多用される歴史地理的な概念である。その範囲はペルシア湾からティグリス川・ユーフラテス川を遡り、シリアを経てパレスチナ、エジプトへ至る半円形の地域である」(Wikipedia)。

 

 「ティグリス・ユーフラテスの2つの川に挟まれた地域は、今でこそほとんどが乾燥地帯だが、かつての沖積層南部では三角州の湿地が複雑に入り組み、洪水の季節になるたびに何百という流路が、あちらで現れこちらで消えしながら交差していた。沖積層は巨大なスポンジの働きをしていて、毎年、流水量が増えるとそれを吸収して地下水面を上昇させ、やがて5月に乾季が始まると、こんどはゆっくり放出していく。

 ユーフラテス川下流の氾濫原はとりわけ平坦だった。毎年の洪水の最盛期には、粗い堆積物が積み上がってできた自然の畝や土手を、水が当たり前のように乗り越え、斜面を流れ落ちて、となりの低地や窪地に流れ込んだ。多くの水路では河床が周囲の土地よりも高いので、水位の高いところの堤を一カ所破るだけで、灌漑と同じ目的が達せられた。

 あとは何もしなくても、自然が準備した畑に種子粒が広がっていく。栄養豊かな沖積層は、ゆっくりと乾燥していくなかで、野生の草食動物のために豊富な飼い葉も用意してくれた ―― もちろん家畜化されたヤギ、ヒツジ、ブタのためにも、である。

 こうした沼地の住民は、俗に『亀の甲羅』とよばれる、わずかに盛り上がった小さな土地に暮らしていた。

 住民は、こうした亀の甲羅から手の届く範囲にある湿地資源のほぼすべてを利用していた。ヨシやスゲは家の材料や食料になったし、ほかにも多種多様な可食植物(イグサ、ガマ、スイレン類)があった。主な蛋白源はリクガメ、魚類、軟体動物、甲殻類、鳥類、水禽類、小型哺乳類、そして季節ごとに移住してくるガゼルなどだった。豊かな沖積層の土壌とたっぷりの栄養を含んだ二つの大河の河口という組み合わせは、並はずれて豊かな水辺の生活を生み出し、膨大な数の魚類、ミズガメ、鳥類、哺乳類 ―― そしてもちろん人間! ―― などが、食物連鎖の下位にいる生き物を食べようと、引き寄せられてきた。紀元前6000年代から5000年代の温暖で湿潤な条件のもとで、野生の生業資源は多様で、量も豊富で、安定していて、しかも回復力があった。

 とりわけ食物連鎖の下位にある資源の密度と多様性は、定住をいっそう現実的なものとした。たとえばアザラシ、パイソン、カリブーといった大型の獲物を追う狩猟採集民と比べると、植物、貝類、フルーツ、ナッツ、小型魚類など、もっぱら栄養段階が体の食物を摂取する人びとは、移動がうんと少なくて済む。こうした食物は、ほかの条件が同じなら、大型の哺乳類や魚類よりも密集しているうえ、あまり移動しないからだ。メソポタミアの湿地帯には栄養段階が下位の生業資源が豊富にあり、それがまたとない好条件となって、早い時期に多くの定住コミュニティができたのだろう。

 南部沖積層にできた最初の固定村落は、単に生産性の高い湿地領域にあったのではなく、いくつかの異なる生態圏を縫うように位置していた。おかげで村人はどの生態圏からも収穫できたし、どれかひとつに排他的に依存するリスクも低減されていた。村人は、海岸や河口の資源豊かな海水環境と、それとは非常に異なる上流河川環境の淡水生態圏との境界に暮らしていた。実際に、汽水域と淡水域の境界線はつねに動いていて、潮汐によって行ったり来たりした。しかも、こうした平坦な地形では、その移動距離が大きい。二つの生態圏が環境を横切って移動するおかげで、多数のコミュニティが、居ながらにして両方の生活資源を手にすることができた。季節ごとの氾濫と乾燥、およびそれぞれに特有の資源についても同じことが、さらに強く言えるだろう。雨期の水生資源から乾季の陸生資源への(およびその逆の)移行は、この地域で年ごとに繰り返される雄大な拍動だった。沖積層に暮らす人びとは、ひとつの生態圏から別の生態圏へと移動する必要などなく、同じ場所に留まっていれば、異なる生息地が、いわば向こうからやってきてくれたのだ。

 さらに、ヨシ舟による交易の容易さという利点もあった。

 湿地帯の豊かさが果たした圧倒的に中心的な役割が無視されてきたのはメソポタミアだけではない。

 ほぼ同じことは、河姆渡(かぼと)文化が栄えた中国・杭州湾についてもいえる。

 インダス川の初期の定住地やハラッパ、さらにはタイのハリプンチャイもこの記述がぴったり当てはまるし、東南アジアのホアビン文化でも、重要な遺跡のある地域は大半が同じような環境だった。さらには、メキシコシティの近くにある初期のテオティワカンの遺跡や、ペルーのティティカカ湖のシュスタニ遺跡など高地にある古代定住地の遺跡にしても、栄えていた当時はやはり広大な湿地帯にあって、いくつもの生態系が接する環境から、魚類、鳥類、貝類、小型哺乳類などの豊かな収穫を得ていた」(『反穀物の人類史』を抜粋・再構成)。

 

 さらに日本の鳥浜貝塚遺跡を加えてもよいだろう。「鳥浜貝塚は、福井県に所在する縄文時代草創期から前期にかけて(今から約12,000〜5,000年前)の集落遺跡である。遺跡は、海抜0メートル~-4.0メートルにある低湿地帯貝塚で、赤漆塗の櫛をはじめとする漆製品、石斧の柄、しゃもじ、スコップ状木製品、編物、縄などの有機物遺物やヒョウタン・ウリ・アサ・ゴボウなどの植物遺体、丸木舟など、通常は腐食して残りにくい貴重な遺物が、水漬けの状態で良好に保存されていたため、『縄文のタイムカプセル』と呼ばれることがある」(Wikipedia)。

断章345

 約1万1700年前頃、氷河期が終わり安定した温暖な気候が始まった。同じ頃にメソポタミアや中国で遊動生活から定住生活への転換があったのは偶然ではない。

 すでに「人類の技術は何百万年にもわたってゆっくりと進化し、3万年前から1万2000年前までの時期にその頂点に達した。この何百万年ものあいだに、石器時代のわれわれの祖先たちが、陸生の大型獣を狩って生活するための道具や技術を徐々に完成させた。(中略)

 狩猟採集民のバンドは、もっとも大型の動物さえも日常的な仕事として仕留めることもできる手段を持つようになった」(マーヴィン・ハリス)。

 人類の狩猟採集技術の進化は、植生の変化とも相まって、大型動物を絶滅させた。しかし、一方では、定置漁具による漁撈という新たな食糧の大量獲得を可能にした。また、安定した温暖な気候は、陽生植物(コムギやオオムギ、ハシバミ、アーモンドなど)の繁茂と大量採集をもたらした。

 

 狩猟採集民の暮らしは、自由で平等で友愛に満ちた穏やかなものとは言い難い ―― 男女平等だったと言う人もいる。しかし、女性の自立と文化的な自治の伝統があったアボリジニ社会でさえ、男たちは女人禁制の儀式のために女たちに食べ物を用意させたり、然るべき相手を性的にもてなすよう命じたという。

 こん棒から槍へ、投げ槍から弓へと、狩りをする技術の進化は、“戦争”の技術の進化でもある。バンドが遊動域で出会う「他者」は、理解できない不愉快な何かで満ちあふれている「敵」である。なので、大型動物の減少に伴う遊動域の拡大は、“戦争”の拡大・頻発になる。

 

 人類が太古から続けてきた「遊動生活」をやめて「定住」したのは、小集団による狩猟採集生活での栄養面などでのメリットを犠牲にしても、近隣集団からの防御(この時期の敵はもはや捕食動物ではなくホモ・サピエンスの別集団)を優先するためだったという仮説がある。