断章212

 「産業革命は、なぜ他の国ではなくイギリスで起こったのか」という問いに対する回答のひとつは、「イギリスは(他国に比べれば)高賃金でかつエネルギー価格が低かったから」である。

 というのは、すでにイギリスの農村ではペスト禍による人口減少から耕作地を牧草地に転換し、羊の飼料改善を行ったことで毛織物産業が発達した。その後も農法の改良を進めて農業生産が増大したので、『農地囲い込み』が可能になり、『民富』が増大した。

 さらに、「スペイン、オランダを経済・戦争で圧倒して大西洋の覇権を手に入れ、貿易で富を得た17世紀末にはバンク・オブ・イングランドが設立され、18世紀に入ると『産業革命』を待たずに英国は大運河時代に突入する。そこにはすでに馬では運びきれないほどの『生産力』があり、馬に代わる流通網として運河を築くだけの『資金』蓄積もなされ、運河に沿って活発な『商業』活動が繰り広げられ、『国富』の拡大蓄積があった。『国富』『民富』の拡大蓄積によって都市が発展し、農村から労働者を引き寄せた。

 ロンドンの熟練労働者は(相対的に)高賃金だったので、機械の発明・利用による労働者削減に大きなインセンティブが働いたのである。賃金が高く、エネルギー価格(石炭)が安かったから、労働者を機械に置き換えるという方向への発展が起きたのである(必要は発明の母である)。

 こうして、生産は工場制手工業(マニュファクチュア)から『機械制大工業』に、さらにそこに18世紀終盤からワットの蒸気機関が加わり、19世紀中盤からはそれを応用した鉄道や蒸気船などの『交通革命』も加わったことで、より幅広く、よりパワフルに、より全産業的に、『産業革命』は広まっていったのである」(以上、『世界史のなかの産業革命』へのアマゾンレビューなどを参照)。

 

 一方、E・トッドの知見では、「イングランドが最初の資本主義国になったのは、(イングランドアメリカ型の絶対核家族という)金銭を媒介とする相続という慣習の影響で、農地からの離脱が容易だったから」であり、「こうした家族類型から導き出される『自由』と『競争』、『差異主義』という原理が、資本主義経済を下支えすることにつながるわけです。

 あくまで個人が優先されるため、個人の金儲けの自由、自分と他人とは違うという差異主義、損得勘定が第一義とされます。儲けたお金を投資するのも自由という考え方は、株式会社というシステムを誕生させます。イギリスの産業革命アメリカの発展を促したのも、『自由』と『競争』と『差異主義』の精神」によるのである。

 鍵となったのは、「1707年に、イングランドスコットランドが同君連合を組み、グレート・ブリテン王国 = イギリスを成立させたことです。トッドは、スコットランドという直系家族の地域に蓄えられた知識が、イングランドに大きく寄与したと見ています。直系家族は、長男の嫁をキーパーソンにして、知識の蓄積、継承が行われやすい家族形態です。そうした直系家族で育まれたスコットランドの知性には、哲学のヒューム、トマス・リード、経済学のアダム・スミスらの『スコットランド啓蒙』と総称される知識人たち、および蒸気機関のジェームズ・ワット。また後の、電話のグラハム・ベルペニシリンのフレミング、ゴムタイヤのダンロップなど偉大な発明家・・・枚挙にいとまがありません。つまり、同君連合でグレート・ブリテンを成立させたことで、スコットランドの直系家族の知性と(イングランドの)絶対核家族の自由、独立、競争の冒険精神が結合して偉大なるイギリスの18世紀を用意したのであり、もし、どちらかが欠けていたとしたら、18世紀はイギリスの世紀とはならなかった」とみる。

 「家から早く独立し、親子関係もドライだという『絶対核家族』の指向が、工場労働者の大量供給を後押ししました。逆の見方をすれば、賃金労働の拡大が、イングランドの絶対核家族化を加速させたとも言えます」(以上、鹿島 茂を参照)。

 

 知識・思想、宗教、法などの精神的世界。経済、制度、技術などの社会的基盤。地理、気候、資源などの自然的条件。こうした精神、社会、自然の三重構造は、相互に作用(規定)しあい相互浸透しながら、この現実を創りあげ変えていく(わたしたちにとって良い方向に、とは限らない)。

断章211

 「読み書きと基礎的算術への全般的到達、次いで中等・高等教育のテイクオフは、全体として、〈歴史〉の本質的基軸のひとつをなすということは、認めなければならない。大文字の〈人間〉なるものについての理論的考察を行なっても、〈人間〉とは何かの理解を先に進ませてくれはしない。ここにおいて、人間とは何かを教えてくれるのは、〈歴史〉そのものである」(E・トッド)。

 

 前述の“危機の17世紀”は、同時に、「14世紀に始まったルネサンスや16世紀の宗教改革など、多くの変化が数百年をかけて、着実に人々の意識を変え始めていたのです ―― 1439年頃に、グーテンベルクが金属活字を使った印刷術を発明したことで印刷革命が始まり、それが一般に中世で最も重要な出来事の1つとされている。活版印刷ルネサンス宗教改革、啓蒙時代、科学革命の発展に寄与した。

 そのような意識の変化の積み重ねに加えて、社会情勢の悪化が引き金となり、従来の常識を解体する科学的な変革が起こりました。それが『科学革命』です。

 17世紀には今も名が知れ渡っている多くの科学者、哲学者が、画期的な研究成果を発表しています。有名なところでは、以下の人物が挙げられるでしょう。

 ニコラス・コペルニクスに始まる地動説を理論面で実証したヨハネス・ケプラー。天体観測によって地動説を証明したガリレオ・ガリレイ万有引力の法則を発見し、近代科学に大きな影響を与えたアイザック・ニュートン。合理主義哲学を生み出したルネ・デカルト。いずれも後世の科学に大きな影響を与えた学者です。

 これら研究の共通点は、従来の神学や宗教的世界観を前提とせず、あくまでも実験や観察に基づいたデータの分析と、数学を用いた論理追求の結果だったことです。実験や観測による研究と理論の組み立ては、現在で考えれば当たり前のように思えますが、17世紀当時では一般的な常識を解体するほどの変革でした。

 当然反発も少なくありません。たとえば、ガリレオは地動説の証明によってローマ教皇庁から異端扱いされ、宗教裁判によって有罪判決を受けています。1633年に下った判決は、約350年も経った1984年になってやっと無罪が証明され、名誉回復が行われたほどです。

 このような既存概念の反発を受けつつも科学の発達が進んだのは、ルネサンス大航海時代の到来によって、ヨーロッパ社会の世界観が大きく開かれていったからでした。

 アジアやアメリカ大陸からもたらされる新しい文化と物資によって、世界観が少しずつ変化していきました。そこに経済の低迷や凶作、反乱などさまざまな困難が襲ってきた結果、人々は新しいものの見方や考え方を求めたのです。科学者や思想家は真理を求める欲求に加えて、世界を変える使命感に突き動かされたのかもしれません。表面の反発はありつつも、多くの理論や発見が社会に受け入れられ、近代科学へと発展していくことになります。

 このように、17世紀に行われた科学革命はそれまでの社会から異端視されるほどの出来事でした。しかし、同時にそれまでの既存概念から解き放たれ、多くの発見をもたらすことになったのです。そしてその実証と論理に基づく科学論は、18世紀の産業革命のような爆発的な技術発展につながっていきます。科学力と技術力の高度化は、ヨーロッパ諸国が全世界をリードする基盤となっていったのです。

 科学革命は科学だけでなく中世までの意識そのものを『解体』し、近代社会を『創造』するパワーの一つになったといえるでしょう」(リバイブHPから引用・紹介)。

 

 「コンドルセのような啓蒙思想家たち、デュルケムのような19世紀末の社会学者たちは、教育の発達を自律的で第一義的な変数と考えていた。〈歴史〉の中を〈精神〉が前進するという壮大なヘーゲル的ビジョンは、ことさら必要ではなく、経験的なやり方で観察するだけで、識字化のテイクオフが工業化のそれより前に起こったことが見て取れたのである。読み書き計算を習得する社会集団が、ますます増大していくということが、18世紀・ 19世紀の人間に、歴史の推進力とは、知的な面で上昇することができる人間の能力であることを明快に指し示していた。彼らには、経済的発展は、教育水準の上昇の論理的帰結であると見えた」(E・トッド)。

 

 トッドに言わせれば、「識字化(つまり識字率の上昇)とは人類の発展の推進力であり、同時に発展の尺度でもある。経済的発展は、識字化の進展の結果であって、決してその原因ではない。

 ・ ・ ・読み書き能力を身に付けると、人々は個人としての自意識に目覚め、伝統的慣習に疑問を抱くようになる。そこで識字率がある水準を超える、つまり多数の住民が識字化されると、平穏な前近代との決別、すなわち近代化が始まる」(『デモクラシー以後』・訳者解説)。

 

【参考】

 「カトリックの社会では、『聖書』を読むのは司祭の仕事であり、逆に一般住民は文字を読んではいけないとされていた。だから『聖書』は教会に置いておくものであり、家へもって帰ってはいけなかった。これが識字率に大きく関係してきて、南欧カトリック地帯では、識字率が高くなるのがずっと遅れた。現に私が1960年代にポルトガルへ行ったときも、ポルトガルのおとなの識字率は50%から60%だった。当然読めるだろうと思って書いても、読めない人がけっこういた」(速水 融)。

断章210

 「16世紀に大航海時代を迎えたヨーロッパは、世界の拡大とともに繁栄を謳歌した。ところが16世紀末、宗教戦争が始まると社会は安定を失っていった。

 “17世紀の危機”(例えば、17世紀中、小規模のものも含めて戦争のなかった時期はわずか4年しかなかったとされる)の最大の要因としては、小氷期の到来により気候が寒冷化したことである。農作物の不作が続いて経済が停滞し、魔女狩りをはじめとする社会不安が増大する。さらにペストの再流行で人口が減少に転じた(ちなみに、近年でもペストの感染は続いており、2004~2015年に世界で56,734名が感染し、死亡者数は4,651名(死亡率 8.2%)である)。宗教対立が激化したために、王室は財政難の打開を目的に中央集権化を進めたが、これに貴族が反発、農民も一揆を起こすようになった。

 特に30年戦争がヨーロッパにもたらした影響は大きかった。結果、ヨーロッパのほぼ中央に位置する神聖ローマ帝国の土地は荒廃し、『神聖ローマ帝国の死亡診断書』とも言われるウェストファリア条約が結ばれた。以降、ウェストファリア体制と呼ばれる勢力均衡体制が出来上がり、各国の相互内政不干渉が保証される。こうして成立した近代主権国家は、20世紀に至るまでの国際社会の基盤を作り上げた」(2020/10/15現在のWikipediaによる)。

 

 「『主権国家』とは、近年になって出てきた概念ではない。それは、歴史学政治学など、人文学・社会科学の分野で古くから用いられてきた。簡単にいうと、①国境によって他と区分される領域をもち、②その領土においては、国の内外の勢力からいかなる干渉も受けない排他的な統治権を有する国家と定義される。ここでいう内外の勢力とは、近世ヨーロッパでは、一方では国内の貴族などの勢力、他方では皇帝や教皇のような普遍主義的な上位の権威を意味する。

 『主権国家』は、近代国家の前身として説明されることが多いが、近世の『主権国家』と近代の『国民国家』には、次のような違いがある。①近世では、国境や領域は明確に定まってはおらず、国民もいまだ形成の過程にあり、②主権は国民ではなく、君主の家産として継承されたことである。(中略)

 重要なことは、現在みられる対等の諸国家から構成される国際関係とそのルールが世界史上初めて誕生したのが、近世のヨーロッパであったということである。それは、東アジアにおける華夷秩序朝貢システムのような非対等的な国際関係とは大きく異なるものであった。また、その主要な原理の一つが、強力な覇権国の台頭を阻止する『勢力均衡』であることは、広く知られていよう。

 近世ヨーロッパにおいて、主権は国民にではなく、君主の家産として継承されたことは先述したが、この場合、『絶対王政』とは、国王による専制政治や中央集権化の傾向がみられた『主権国家』をさして用いられる。このような『絶対王政』の特徴として、しばしば指摘されるのは、戦争にともなう常備軍と官僚制の整備である。

 このように、国家や政治体制に注目して限定的に考えるのであれば、近世の『主権国家』と『絶対王政』のあいだに概念上違いはないといってもさしつかえない。実際、世界史教科書でも、両者はほぼ同じ脈絡で説明されるのが一般的である。

 かつて『絶対王政』や『絶対主義』は、近代の資本主義の発展や、イギリス革命・フランス革命のような市民革命との関係から説明されることが多かった。たとえば、『絶対王政』を中世の封建国家の最終段階、近代国家の初期段階とみなして、市民革命により最終的に打倒されるといった説明である。しかし、市民革命論とその前提をなした一国史的・発展段階論的な歴史観が通用しなくなった現在では、そのように『絶対王政』を考えるわけにはいかない。むしろ、歴史家のあいだでは、近世の国家のあり方をその時代にそくして理解しようとする傾向が強まっている。それゆえに、『絶対王政』や『絶対主義』よりも、『主権国家』の概念のほうが、近世ヨーロッパ史を学ぶうえで近年重視される傾向にあると思われる」(中村 武司)。

 

 絶対王制(絶対王政)について付言すれば、それは、「農村商工業の展開がもたらした封建制の経済的な危機に対応する封建制の最終的な統治形態及び政策体系と定義されます。言い換えるなら、それは封建制の危機に対応する封建領主層の権力集中であり、その結果、権力が集中した先に絶対君主が発生することになります。

 絶対王制は封建制の危機と外圧へ対応するための封建領主の権力集中ですから、以下の3つのことを主たる課題としました。

 第1は、産業規制です。いうまでもなく、農村商工業の展開こそが封建制の危機の根本的な原因ですから、それにいかに対処するかが何よりも絶対王制の成否を問うことになります。農村商工業を抑制・禁止することが絶対王制の第一の課題でした。しかし、外圧という面にも配慮するなら、絶対王制は農村で展開した新たな経済活動を抑圧するだけでは済まず、君主自らが企業を設立・誘致して、新産業を育成し、先端技術を導入し、また、軍隊を強化するための兵器生産に乗り出さざるをえないという殖産興業の課題も同時に担わなければならなかったのが、絶対王制の産業政策の二重性でした。

 絶対王制の第2の課題は貿易規制です。貿易にともなう貴金属の流出入が国富を増減し、国力を左右すると考えられた時代ですから、絶対王制は、輸出を奨励し、また輸入を抑制するために保護関税、産業育成、輸入代替国産化などの政策を採用しました。また、輸出入を君主権力が統制するために、君主によって貿易独占権を付与された特権的貿易商組合を組織させるとともに、特権の見返りに諸種の営業税(冥加金)を課し、また王室や政府への融資を求めました。

 第3の課題は中央集権的統治機構の整備でした。従来の地域別・身分別の分権性を統合して、君主の下で全国を一円的に統一的に統治するための行政機構、課税・徴税機構、そして君主直属の常備軍を整備することになります。直属常備軍は外圧への備えであるにとどまらず、16世紀ごろよりヨーロッパの諸国間で頻発するようになってきた諸種の戦争で、配下貴族の裏切りや怠慢を防止して対外戦争を有利に戦うためにも必要でした」(小野塚 知二の前掲書から抜粋・再構成)。

断章209

 「ヨーロッパでは15~16世紀、ほぼ近世の前半にあたる時期に、商業上の大きな変化が発生します。そのひとつは域外貿易の拡大であり、他方は『価格革命』です。これら2つの変化を総合して、ヨーロッパ近世の『商業革命』と呼びます。

 『地理上の発見』や『新航路の開拓』は単に海運・航海上の出来事ではなく、アジアや新大陸との直接貿易が拡張することによって、東洋産の既知の産品だけでなく、さまざまな新種商品がアジア、アフリカ、中南米から流入し、ヨーロッパの人々の生活に深く入り込むようになります ―― たとえば、ジャガイモは新大陸から伝わりましたが、現在のヨーロッパの食からジャガイモを取り除いたら、彼らの摂取熱量が下がるだけでなく、ジャガイモ栽培をやめたらヨーロッパの食料自給率も大幅に下がるでしょう。大雑把にいって、ジャガイモは麦類の穀物と比べるなら、同じ面積で2倍ないしそれ以上の熱量が収穫できるので、近世以降のヨーロッパの人口増加を支えた重要な食料となりました。

 これらの外国産品の対価としてヨーロッパが支払ったのは、主に銀(ヨーロッパ産、後に新大陸産)であり、また中世から近世にかけてのヨーロッパの基軸商品ともいうべき毛織物でした」(小野塚の前掲書から抜粋・再構成)。

 

 「『地理上の発見』や『新航路の開拓』にもっとも積極的だったのは、いうまでもなくポルトガルとスペインであった。地中海はすでにイタリアの商人におさえられている。だから彼らは、大西洋を使ってアジアへはいるルートを模索したのである。喜望峰の発見がこの模索の成果であったことはいうまでもない。ジェノヴァの商人コロンブスは、スペイン女王イザベラの援助を受けて、インドへ達するルートを求めて西へと向かったのである。

 後に17世紀にはいると、スペイン・ポルトガルにかわってイギリス・オランダが進出してくる。彼らの進出の象徴的存在が東インド会社なのである。・・・アジア文明圏との直接の接触はヨーロッパに多くのものをもたらした。とりわけインドの木綿、染料(インディゴ)、こしょう、南アジアの香辛料、中国の生糸、絹、陶磁器、(引用者注:そして、茶)はヨーロッパにいわば消費ブームを呼び起こした。これらの物産は、ヨーロッパの上流階級の欲望に火をつけたのである。それらの商品は、異なった文明へのロマンティックな思い入れと、エキゾチックな好奇心をかきたて、上流階級に消費ブームを引き起こしたのである。

 ところが、ヨーロッパはといえば、自らの旺盛な需要の見返りに当時の『先進』文明圏であるアジアに輸出する商品をもたなかったのである。毛織物を除いてヨーロッパは輸出すべき格別の物産をもたなかった。ヨーロッパ産のものでアジアにもっていって売れるものは銀と銅ぐらいであった。そこで、ヨーロッパは、アジアからの輸入代金を手に入れるために、新大陸に金を求めることになる。

 『スペイン人の心の病に効く特効薬は金だ』といわれたように、スペインは憑かれたように新大陸に金を求めた。西インド諸島の金が枯渇しかかってくると、メキシコ、ペルーに銀を求めた。これらの地でのインディオたちの虐殺は、金銀に対するスペイン人(引用者注:そして、わたしたち)の欲望の底知れぬ不気味さをあらわしている」(『欲望と資本主義』)。

 

 同じ時期に、「ヨーロッパは物価の持続的騰貴を経験しました。これを近世の『価格革命』と呼びます。たとえば、イギリス(イングランドウェールズ)では、15世紀には価格は非常に安定的でしたが、16世紀に入ると上昇し始め、17世紀末には15世紀の平均価格の6倍にまで騰貴しています。こうした物価騰貴の背景には、人口増加、ことに商工業人口(土地なしの非農業人口)の増加が左右しているということが推測されます」(小野塚の前掲書から抜粋・再構成)。

 

 「イングランドは、農村商工業の発展によって、ヨーロッパの基軸商品の毛織物の原料輸出国から製品輸出国へと変化して、ヨーロッパ内の国際分業に大規模な構造変化をもたらしました。近世初期に強大な勢力を誇ったスペインが毛織物を産出できず、新大陸で獲得した銀もヨーロッパ諸国に流出するばかりで衰退し、逆にイングランドが徐々に経済力・海軍力を背景にして繁栄するようになる勢力交替の背景にも、この農村商工業の有無が作用していました」(同前)。

 まるで今日の国際情勢のようではないか?

断章208

 封建的生産様式とは、封建領主層が直接的生産者である農奴の剰余を「経済外的強制」によって収奪する生産様式である。

 この「経済外的強制とは、たとえば、封建領主が農奴から封建地代を収奪するなど、富の移転が当人の自由意思(他者の所持する何かと交換したいなどの)によらずになされる際に、発動される強制力(実力)を意味します。それは、近代的な観念で前近代の経済を把握しようとする際に用いられた言葉で、強制や、不自由や、暗黒のイメージを帯びています。しかし、前近代の人々はそれが必ず、いまの私たちが感ずるのと同様な『強制』や『不自由』と受けとめられていたわけではなく、あくまで掟(おきて)・定(さだめ)・分(ぶん)・矩(のり)やしきたりとして認識されていました。前近代の人々がそうした掟に、ときに不満を抱くことがあったとしても、それは是非を超えた掟(『御上の沙汰は是非もなし』)であって、その意味で、前近代社会とは疑われざる規範の体系だったのです」(『経済史』小野塚 知二)。

 

 「封建制の下で収奪された剰余を封建地代と総称します。封建地代の最も原初的な形態は、領主直営地での賦役(労働地代)です。賦役制の場合、農奴は1週間/1年間のうち決まった日数は領主直営地で働くという日ぎめの奴隷であり、それ以外の日は、農奴は自分の保有地で働く経営主体でした。しかし、領主直営地と農奴保有地での労働生産性に大きな差がある(領主直営地で懸命に働いても成果は全て領主に収奪されるから労働意欲は低く、自己保有地の収穫はわがものとなるので労働意欲が高くなる ―― 引用者注:旧ソ連の集団農場と同じである)ことに気づいた領主は、農奴を監督する手間のかかる直営地経営=賦役制をやめ、すべての耕地・牧地を農奴に分割保有させることになります。・・・すべての耕地・牧地が直接的生産者である農奴の個人的所有の対象となったのです。これに対応して登場した封建地代形態が生産物地代で、近世日本の年貢はこれに相当します」(前掲書)。

 

 「11世紀の後半から、ヨーロッパ世界では外敵の侵入も終わり、封建社会の仕組みが出来上がって、社会の安定期を迎えた。あわせて気候の温暖化という自然条件にも恵まれた。三圃制農業の普及(他にも『中世農業革命』とも呼ばれる一連の農業技術の革新)などは、穀物の収穫高を、およそ3~4倍向上させ、農民の可処分所得を増大させ、またブドウなどの商品作物の栽培も可能にして、多角的な農業が展開されるようになった。

 こうした生産力の発展を背景として、人口は増加し、人口の増加は耕地の拡大をもたらした。11世紀後半から13世紀前半までの約2世紀間は、大開墾時代といわれ、森林や原野が開かれ、低湿地は埋め立てられていった。この時期以降は、封建社会のあり方もそれ以前の前期封建社会に対し、後期封建社会として区分される。

 さらに生産力の発展は、封建社会の農業中心の自給自足経済のあり方を変え、商工業を発展させ、貨幣経済を復興させることとなる。それが東方貿易(レヴァント貿易)を盛んにさせ、商業の復活(商業ルネサンス)といわれる状況につながった。

 また、ヨーロッパの人口増加は、その周辺への進出や植民の運動を引き起こした。11世紀末に始まる十字軍運動や、同じ時代に展開されるドイツ人の東方植民、イベリア半島でのレコンキスタ、オランダの干拓などの動きがそれである。またキリスト教徒の巡礼が盛んになったこともその運動の一面であった」(WEB『世界史の窓』を抜粋・再構成)。

 

 7、8回におよんだ「十字軍」遠征の失敗とペストの猛威(欧州人口の3分の1が失われた)から「信者を守れなかった」カトリック教会の権威の失墜、また「十字軍」運動の敗北による封建領主たちの疲弊があって、封建制は動揺した。

 「中世末期14世紀のヨーロッパでは、ペストの大流行で欧州人口の3分の1の住民が病死した。荘園で働いていた農奴も多数亡くなり、荘園は深刻な働き手不足に陥った。ウイルス研究者の加藤茂孝氏によると、イギリスでは労働者不足に対処するため、エドワード3世が賃金を固定する勅令を定めた。労働集約的な穀物の栽培から人手の要らない羊の放牧への転換が進んだという。

 数が少なくなった農業の働き手は農奴の身分から小作農という新階層に変わっていった。農奴は都市に逃げ込めば自由になれた。封建領主によってがんじがらめにされていた農民は完全ではないにしろ人間性を回復できた。人口減少はイタリアの都市国家をはじめとする欧州各国にルネサンス(文芸復興)をもたらすとともに、中世のシステム全般を崩壊させていった。

 もちろん、物事はすべてが楽観的に進むわけではない。ルネサンスの後に現れたのは絶対君主制だった。イタリアの都市国家絶対君主制国家に敗れて衰退した。西欧では封建領主の力は弱まったが、君主や国家権力の力はかえって強まった。本格的な市民社会の到来は18世紀以降に持ち越された」(『中国 人口減少の真実』)。

断章207

 「現在は過去の集積に他ならない。過去に目を向けることで現在を理解することが可能になる」。

 

 「封建制とは、君主の下にいる諸侯たちが土地を領有してその土地の人民を統治する社会・政治制度である。諸侯たちは、領有統治権のかわりに君主に対して貢納や軍事奉仕などといった臣従が義務づけられ、領有統治権や臣従義務は一般に世襲される。

 フューダリズム(Feudalism)とは歴史学において中世北西部欧州社会特有の支配形態を指した用語であり、『封建制』と訳される。土地と軍事的な奉仕を媒介とした教皇・皇帝・国王・領主・家臣の間の契約に基づく緩やかな主従関係により形成される分権的社会制度で、近世以降の中央集権制を基盤とした主権国家絶対王政の台頭の中で解消した。

 古ゲルマン人社会の従士制度(軍事的奉仕)と、ローマ帝国末期の恩貸地制度(土地の保護)に起源を見いだし、これらが結びつき成立したと説明されることが多い。国王が諸侯に領地の保護(防衛)をする代償に忠誠を誓わせ、諸侯も同様の事を臣下たる騎士に約束し、忠誠を誓わせるという制度である。この主従関係は騎士道物語などのイメージから誠実で奉仕的な物と考えられがちだが、実際にはお互いの契約を前提とした現実的なもので、また両者の関係が双務的であった事もあり、主君が臣下の保護を怠ったりした場合は短期間で両者の関係が解消されるケースも珍しくなかった。

 更に『臣下の臣下は臣下でない』という語に示されるように、直接に主従関係を結んでいなければ『臣下の臣下』は『主君の主君』に対して主従関係を形成しなかった為、複雑な権力構造が形成された。これは中世西欧社会が極めて非中央集権的な社会となる要因となった(封建的無秩序)。

 西欧中世においては、外民族のあいつぐ侵入に苦しめられた。そのため、本来なら一代限りの契約であった主従関係が、次第に世襲化・固定化されていくようになった。こうして、農奴制とフューダリズムを土台とした西欧封建社会が成熟していった」(Wikipedia、2020/10/02現在)。

 

 「アジア的古代および古典古代においては、階級抑圧の支配的な形態は奴隷制、すなわち大衆から土地を収奪することよりもむしろ、彼らのからだを領有することであった。……中世においては、封建的な抑圧の源泉となったのは、人民から土地を収奪することではなくて、反対に土地にしばりつけて人民を領有することであった。農民は自分の土地をもっていたが、農奴または隷農として土地に緊縛されたし、また年貢を労働または生産物のかたちで領主におさめる義務をおわされた」(エンゲルス)。

 

 農奴は奴隷ではない。「それは奴隷が主人から殺される可能性があるのに対して、領主によって殺されることはないから、ではない。農奴は社会的諸関係から(引用者注:奴隷のように自分の共同体から)引き剥がされた人々ではない。彼らの身分は、その初期には引き続き奴隷と呼ばれたりしたかもしれないが、農奴は現地に生まれ育ち、生産手段を保有し、かつ家族及び親族組織を持ち、コミュニティに属する直接生産者であった。彼は、彼の人身を支配する領主と、彼の耕地を所有する領主と、同時に二人の領主を持つことができた。村落に幾つかの所領や荘園が入り組んで存在していた場合、彼が複数の耕地を持つならば、彼はその耕地を通じて同時に二人以上の領主と主従関係を結ぶことが可能であった。さらに、彼は土地の教会で洗礼を受けることによって、教会とも正規の関わりを結ぶことができた。コミュニティが村落共同体に組織されていた場合、彼らは村落を背景に領主層とバーゲニング(引用者注:交渉過程において交換可能なものを探すこと)を繰り返すことが可能であった。さらには、村落が幾つかの荘園や所領に分割されていることを利用して、村落に利害関係を持つ領主を競わせることもできたし、隣接した村落が連合し、より大きな領主とも対抗することも可能であった。このような農奴の日常闘争は、主人との関わりしか持たない奴隷には思いもよらないことであったであろう」(福本 勝清)。

 

 「日本史においては、一般に鎌倉時代から明治維新までの武家支配時代を封建時代と呼ぶ。上代の班田制の崩壊、荘園制の一般化によって、平安時代中期頃に成立したと考えられており、鎌倉時代室町時代は中世封建制社会(封建社会前期)、江戸時代は近世封建制社会(封建社会後期)に分類されている」(Wikipedia)。

 

 「日本では約1,000年、武士の時代が続き、現在の非武士の時代はまだ150年しかやっていない。だから武士の時代、とりわけ、兵農分離後の江戸武士社会300年の影響が、現在に色濃く残っていると考えるのが普通で、現代日本社会の原点はまぎれもなく江戸の武士社会のなかにも読み解くヒントがある。(中略)

 近世武士が登場するきっかけを作ったのは、火縄銃出現による戦術の変化であった。・・・火縄銃が使われるようになった戦場では、集団でひとかたまりとなり、その中心に主君をおき、密集軍団で突撃する戦法をとることが有利となる。いわば最前列が盾になり後陣が攻め込む戦法で、この戦法は、数分に1発しか撃てず有効射程150メートルの火縄銃相手だからこそ効果的となる。こうした戦法を得意とするのが濃尾平野の武士たちであった。かくして、濃尾平野から信長、秀吉、家康という天下を争うリーダーたちが生まれている。

 ・・・この戦法は、すぐ逃げ出す中世武士団では成立しない。体を張って主君を守る家来がいないと実現不可能となる。そこで主君は、家来に、もし死んでも、『遺族には、子々孫々まで家名と土地を保証する』ことで体を張らせた。これが譜代の家臣の成立である。(中略)

 子々孫々まで家名と土地が併せて保証されるということは、裏を返せば、へたに冒険して失敗をすると、その権利を剥奪され、子々孫々まで影響が出ることを意味する。武士たちは、・・・保身ばかりに考えがゆき、決められた仕事以外はしなくなった。頑張っても、先祖の働きで谷高は決まっているからあまり努力もしなくなったといってよい。横並び意識が強くなり、失敗しないために前例を重視するようになった。現代日本の組織伝統はこの流れを汲んでいる面がある。つまり、大失敗や巨額の不正はしない代わりに、新しいことや積極的な仕事はしない。江戸時代のこの構造は、それまでに自分が携わっている仕事以外は、全く何もできない武士を創りあげた。(中略)

 ・・・しかし、九州と東北では兵農分離が進まず、武士が領民と同じように働いていた。

 (江戸などで主流の)形式にとらわれた武士と、何事も実質に添い行動に移す武士、この違いが幕末にも影響し、実際、兵農未分離の九州と東北が戦える武士で戊辰戦争士族反乱はこの地域で起きた」(『日本史の探偵手帳』 磯田 道史)。

断章206

 1989年末、資産価格の上昇と好景気などを背景に株価はうなぎ登りとなり、日経平均株価は、史上最高値3万8,915円を付けた。これはまさに歴史的なピークであり、その後30年を経過してもなおこのピークを超えていない。日経平均株価に象徴されるように、日本経済も停滞しているようにみえる。ほとんど成長していないと、わたしたちは思っている。

 

 「ここでクイズをひとつ」。

 「トマ・ピケティの『21世紀の資本』にある次の文章中の〇にあてはまる国はどこだと思う?

 〇は、『栄光の30年』なるもの、つまり1940年代末から1970年代末の30年間について、かなりノスタルジーを抱いてきた。この30年は、経済成長が異様に高かった。

 1970年代末から、かくも低い成長率という呪いをかけたのがどんな悪霊なのやら、人々はいまだに理解しかねている。今日ですら、多くの人々は過去30年の『惨めな時代』がいずれは悪夢のように終わり、そして物事は以前のような状態に戻ると信じている」。

 「〇にあてはまる国は、もちろん日本だろう! と思う人がしばしばいるのであるが、そうではなく、〇に入る国は、ピケティの祖国フランスである。日本人が『物事は以前のような状態に戻る』と考えているようなことを、実は世界中の高度経済成長を過去に経験したことのある先進国の人たちが考えているというわけである。

 たしかに、西欧と日本は1950~70年に大きな経済成長を経験している。それは当然と言えば当然で、西欧は、大戦で破壊され、その間、アメリカは順調にマイペースで成長を遂げていた。したがって、戦後になると西欧はアメリカへの、生産技術・ライフスタイルのキャッチアップを図る機会があったから、大きく経済が成長し人々の生活水準は上がった。

 日本が戦後、高度成長期を迎えたのも似たような理由による。知識や技術、そして消費生活がアメリカに追いついたら、西欧も日本も経済成長は、アメリカと同様のペースに落ち着いていき、多少の違いを見せるだけになる。

 キャッチアップという本質的には知識や技術の『模倣』でしかないことと、『創造』というものは根本的に違うわけで、その違いが、日本でも、模倣ゆえに、所得倍増計画を派手に達成できた高度経済成長と、創造ゆえに地道となってしまう安定成長の違いをもたらしたと考えられる。

 日本の人口調整済み実質GDPは、欧米先進諸国と比べて、そこそこ伸びている。日本の完全失業率は、生産年齢人口の急減の影響もあって、目下、バブル景気(1986年12月~1991年2月)、いざなみ景気(2002年2月~2008年2月)と比べて低い水準にある。

 ところが、日本人は、先のピケティの言葉を用いれば、『この30年は、経済成長が異様に低かった。(中略)多くの人々は過去30年の“惨めな時代”がいずれは悪夢のように終わり、そして物事は以前のような状態に戻ると信じている』ようなのである。そしてそう信じているのは、日本人だけでなく、フランス人も、そして多くの先進国の人たちもであろう。しかし、過去200年以上のデータに基づいてピケティが言っているように、(1人当たり産出量は)通常は年率1~1.5%程度の成長でしかなかったのだ。それよりも目に見えて急速な、年率3~4% の成長が起こった歴史的な事例は、他の国に急速に追いつこうとしていた国で起こったものだけだ。(中略)重要な点は、世界の技術的な最前線にいる国で、1人当たり産出成長率が長期にわたり年率1.5%を上回った国の歴史的事例はひとつもない、ということだ。

 ここで1人当たり1%程度の成長というと、『以前のような状態に戻る』と考えている人たちはバカにするのだろうが、ピケティも強調しているように、世代が入れ代わるのに要する30年ほどの間に、1%で伸びると複利で計算すれば35%ぐらい増える。1.5%だと50%以上増える。

 生活実感として、明らかに30年前よりも生活は便利になり、質も随分と上がっている。30年前にはスマートフォンはもちろん、携帯電話やカーナビなどもほとんど普及していなかった。もちろん、テレビはデジタルではなかったし、SuicaもETCもなく、ウォシュレットも1992年ごろには普及率20%くらいだったようである。

 ポール・クルーグマン(米ニューヨーク市立大学大学院センター教授)という、リフレ政策をせっせとやって日本の経済にカツを入れろと言ってきた人も、ある頃から日本の人口が減っていることを視野に入れはじめて、彼が書いた2015年の文章には、『日本の生産年齢人口1人当たりの生産高は、2000年ごろからアメリカよりも速く成長しており、過去25年を見てもアメリカとほとんど同じである(日本はヨーロッパよりもよかった)』と、今では日本経済を評価してくれている。

 私がよく言うのが、ビックカメラヨドバシカメラの最上階から地下まで、各フロアを回ってみて、『どうしても月賦で買いたいというものはありますか?』と問うと、高度経済成長期を経験したことがある今の大人たちはみんな、『う〜ん、ないなぁ。月賦かぁ、懐かしい言葉だ』と言う。

 そうした、多くの人たちの購買意欲がとても弱い社会、いや、適切な表現をすれば、ある程度、民間での消費が飽和している社会が、高度経済成長期のようなパフォーマンスを上げることができるとは思えない。

 一方、アメリカでは、グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの頭文字をとったGAFAなどが注目されるのであるが、1人当たり実質GDPの推移を見れば、どうも、GAFAの元気のよさは、アメリカ国民全般の生活水準の上昇にはつながっていないようである。

 いわば、GAFAというプラットフォームは、一種の搾取システムとして機能しているともいえ、彼の国では、『富める者が富めば、やがて貧しい者にも富が滴り落ちる』という『トリクルダウン理論』―― 理論というには歴史上一度も実現していない理論 ―― は実現していないのであろう。

 だからこそ、映画『華氏119』に登場する、不満と怒りに満ちたアメリカ人が大勢いて、この映画で描かれているように、社会は分断され、民主主義が極度におかしくなっているのだろう」。 ―― 上記は、東洋経済オンライン・権丈 善一から引用・紹介。