断章210

 「16世紀に大航海時代を迎えたヨーロッパは、世界の拡大とともに繁栄を謳歌した。ところが16世紀末、宗教戦争が始まると社会は安定を失っていった。

 “17世紀の危機”(例えば、17世紀中、小規模のものも含めて戦争のなかった時期はわずか4年しかなかったとされる)の最大の要因としては、小氷期の到来により気候が寒冷化したことである。農作物の不作が続いて経済が停滞し、魔女狩りをはじめとする社会不安が増大する。さらにペストの再流行で人口が減少に転じた(ちなみに、近年でもペストの感染は続いており、2004~2015年に世界で56,734名が感染し、死亡者数は4,651名(死亡率 8.2%)である)。宗教対立が激化したために、王室は財政難の打開を目的に中央集権化を進めたが、これに貴族が反発、農民も一揆を起こすようになった。

 特に30年戦争がヨーロッパにもたらした影響は大きかった。結果、ヨーロッパのほぼ中央に位置する神聖ローマ帝国の土地は荒廃し、『神聖ローマ帝国の死亡診断書』とも言われるウェストファリア条約が結ばれた。以降、ウェストファリア体制と呼ばれる勢力均衡体制が出来上がり、各国の相互内政不干渉が保証される。こうして成立した近代主権国家は、20世紀に至るまでの国際社会の基盤を作り上げた」(2020/10/15現在のWikipediaによる)。

 

 「『主権国家』とは、近年になって出てきた概念ではない。それは、歴史学政治学など、人文学・社会科学の分野で古くから用いられてきた。簡単にいうと、①国境によって他と区分される領域をもち、②その領土においては、国の内外の勢力からいかなる干渉も受けない排他的な統治権を有する国家と定義される。ここでいう内外の勢力とは、近世ヨーロッパでは、一方では国内の貴族などの勢力、他方では皇帝や教皇のような普遍主義的な上位の権威を意味する。

 『主権国家』は、近代国家の前身として説明されることが多いが、近世の『主権国家』と近代の『国民国家』には、次のような違いがある。①近世では、国境や領域は明確に定まってはおらず、国民もいまだ形成の過程にあり、②主権は国民ではなく、君主の家産として継承されたことである。(中略)

 重要なことは、現在みられる対等の諸国家から構成される国際関係とそのルールが世界史上初めて誕生したのが、近世のヨーロッパであったということである。それは、東アジアにおける華夷秩序朝貢システムのような非対等的な国際関係とは大きく異なるものであった。また、その主要な原理の一つが、強力な覇権国の台頭を阻止する『勢力均衡』であることは、広く知られていよう。

 近世ヨーロッパにおいて、主権は国民にではなく、君主の家産として継承されたことは先述したが、この場合、『絶対王政』とは、国王による専制政治や中央集権化の傾向がみられた『主権国家』をさして用いられる。このような『絶対王政』の特徴として、しばしば指摘されるのは、戦争にともなう常備軍と官僚制の整備である。

 このように、国家や政治体制に注目して限定的に考えるのであれば、近世の『主権国家』と『絶対王政』のあいだに概念上違いはないといってもさしつかえない。実際、世界史教科書でも、両者はほぼ同じ脈絡で説明されるのが一般的である。

 かつて『絶対王政』や『絶対主義』は、近代の資本主義の発展や、イギリス革命・フランス革命のような市民革命との関係から説明されることが多かった。たとえば、『絶対王政』を中世の封建国家の最終段階、近代国家の初期段階とみなして、市民革命により最終的に打倒されるといった説明である。しかし、市民革命論とその前提をなした一国史的・発展段階論的な歴史観が通用しなくなった現在では、そのように『絶対王政』を考えるわけにはいかない。むしろ、歴史家のあいだでは、近世の国家のあり方をその時代にそくして理解しようとする傾向が強まっている。それゆえに、『絶対王政』や『絶対主義』よりも、『主権国家』の概念のほうが、近世ヨーロッパ史を学ぶうえで近年重視される傾向にあると思われる」(中村 武司)。

 

 絶対王制(絶対王政)について付言すれば、それは、「農村商工業の展開がもたらした封建制の経済的な危機に対応する封建制の最終的な統治形態及び政策体系と定義されます。言い換えるなら、それは封建制の危機に対応する封建領主層の権力集中であり、その結果、権力が集中した先に絶対君主が発生することになります。

 絶対王制は封建制の危機と外圧へ対応するための封建領主の権力集中ですから、以下の3つのことを主たる課題としました。

 第1は、産業規制です。いうまでもなく、農村商工業の展開こそが封建制の危機の根本的な原因ですから、それにいかに対処するかが何よりも絶対王制の成否を問うことになります。農村商工業を抑制・禁止することが絶対王制の第一の課題でした。しかし、外圧という面にも配慮するなら、絶対王制は農村で展開した新たな経済活動を抑圧するだけでは済まず、君主自らが企業を設立・誘致して、新産業を育成し、先端技術を導入し、また、軍隊を強化するための兵器生産に乗り出さざるをえないという殖産興業の課題も同時に担わなければならなかったのが、絶対王制の産業政策の二重性でした。

 絶対王制の第2の課題は貿易規制です。貿易にともなう貴金属の流出入が国富を増減し、国力を左右すると考えられた時代ですから、絶対王制は、輸出を奨励し、また輸入を抑制するために保護関税、産業育成、輸入代替国産化などの政策を採用しました。また、輸出入を君主権力が統制するために、君主によって貿易独占権を付与された特権的貿易商組合を組織させるとともに、特権の見返りに諸種の営業税(冥加金)を課し、また王室や政府への融資を求めました。

 第3の課題は中央集権的統治機構の整備でした。従来の地域別・身分別の分権性を統合して、君主の下で全国を一円的に統一的に統治するための行政機構、課税・徴税機構、そして君主直属の常備軍を整備することになります。直属常備軍は外圧への備えであるにとどまらず、16世紀ごろよりヨーロッパの諸国間で頻発するようになってきた諸種の戦争で、配下貴族の裏切りや怠慢を防止して対外戦争を有利に戦うためにも必要でした」(小野塚 知二の前掲書から抜粋・再構成)。