断章526
むかし昔の話である。
「命もいらず、名もいらず、もとより官位も金もいらぬ。プロレタリアート自己解放のために、プロレタリアート解放の『前衛党』建設のために〈献身〉しよう」と決意した多くの青年労働者が、「パルタイ」(=日本共産党)、あるいは「反日共系セクト」に結集した。
だが現実は、無慈悲で残酷だ。
家庭に入り込んで働く「家政婦は見た!」のように、5年、10年と〈活動〉をつづけるなかで、青年労働者は知ってしまう。
第一に、「パルタイ」(=日本共産党)、あるいは「反日共系セクト」には、「ビジョンがない。展望がない」。
コミュニズムとは、どのようなもので、それが何をもたらすのか、それによって社会問題が解決するという根拠はなにか、どういう意味での「解決」なのか、学問的裏付けはあるのか、客観的データはあるのか?
“社会主義・共産主義”として語られることは、耳触りのいい「美辞麗句」にすぎないのではないか?
ある俗流マルクス主義者は、「生産手段の国有化、計画経済の実施、全労働者の公務員化。この三つを実施すれば、貧富の差もない、恐慌もない、失業もない『理想社会』ができる“はずです”(注:出た! お得意の“はずです”論!)」と言った。だが、これらは、みな机上の空論であり、地に足のついていない、すでに歴史的事実において失敗に終わった作り話(ペテン)だったのではないか?
第二に、「パルタイ」(「反日共系セクト」も)の内部システムは、他人のために決断する者と他人の決断に従う者に分かれていること ―― 能力主義、学歴主義、官僚主義、引き回しの利用主義、えこひいき、そんたく、裏切りもあること ―― 実は、それは、トップに偉い人がいて、ホワイトカラーの本社の人がいて、ブルーカラーの本工がいて、切り捨て御免の非正規がいるという企業(資本)や国家の内部システムと同じものだということ。
その完成形態は、「プロレタリアの独裁は、党の指導的な指令に加えて、プロレタリアートの大衆組織によるこれらの指令の実行と、国民によるこれらの指令の実現から成り立つものである」(スターリン『レーニン主義の諸問題』1926年)に見ることができる。
ここでは「指導的な指令を出す者」とその指令を「実行する者」「実現する者」とは完全に分離・分裂している!
「パルタイ」(「反日共系セクト」も)の内部編成は、階級社会そのものである。むしろ、表向き“同志”と呼び合い、“戦士共同体”を装う(ふりをする)だけ、たちが悪いとも言える。
昔日の青年労働者(もう若くはない)は、心が凍えても、もう「パルタイ」(あるいは「反日共系セクト」)を抜けようとしない。今ではもうそこにしか、おのれが信じる生きる理由、存在価値(raison d'etre)がない、と思っているから。
しかし、けっしてそんなことはないのである。
「人間至る所青山あり」(じんかんいたるところせいざんあり)。骨を埋める場所は、どこにでもある。若かりしときに抱いた“世のため、人のために”を実現するためには、故郷 ―― 「パルタイ」であれ、あるいは「反日共系セクト」であれ ―― にこだわらず、広い世間に雄飛して活動すべきである。