断章518
前稿、断章517の鈴木 元は、日本共産党京都府委員会の専従・役員を勤め、党歴60年であるという。日本共産党員は、「真面目」であると、自他ともに認めることが多いそうである。けれども、彼ら日本共産党員は、自分の思索の手綱をまるまる党中央にゆだね、その時々の党中央の主張を丸写しに語るだけの「不勉強」な者たちでもある。
日本共産党傘下の、かつての民主青年同盟は、輪をかけてひどかった(「歌って踊って日共民青」とバカにされていた)。
1970年頃、東京の私立大学の民青同盟員と話す機会があった。「“スターリン批判”と“ハンガリー動乱”について、個人としてどう思うか」とたずねた。彼は、「それって何ですか?」と答えた。当時の反日共系小セクトでは、かけだし下っ端の労働者構成員であっても、“スターリン批判”や“ハンガリー動乱”に関する知識は“常識”であったから、えらく驚いた。
そんな「不勉強」な者たちの集まりのひとつが、たとえば、1974年10月に東京・武道館で開催された「民主青年同盟、秋の大学習集会」である(党歴60年を誇る鈴木 元も傍聴していたのだろうか…) ―― 時代が古すぎると言うなかれ。日本共産党は、今もなお、「社会主義・共産主義社会をめざす」と、古い“ユートピア”を語っているではないか!
「広い日本武道館を一階から四階まで、一万数千の参加者のあふれるような熱気でうずめつくした」民青同盟員に向かって、「確固とした羅針盤」をもった歴史と社会の自覚的な参加者として生活し、活動してゆけるようになりなさいと、講師・不破 哲三は熱弁をふるったのだった。講演のお題は、「科学的社会主義と日本の進路」(出典:『青年と語る』1975)である。
不破は、ご機嫌である。「みなさんがたの学習への高い熱意と、わが国の青年運動の大きな発展とが反映していると思います。そのことをまずみなさんとともに喜びたいと思います。(拍手)」。この(拍手)と書き添える表現スタイルは、日本共産党が1974年に至るもなお、スターリン主義の指導部“賛美”の表現に囚われていたことを示すものだ ―― たとえば、図書館・古書店で「スターリン全集」を見てみたまえ。同じものを見る。
不破は、1974年当時の日本にふさわしく、「公害」問題にふれつつ、「いまの資本主義の社会のいろいろな害悪のいちばんの根源はどこにあるのでしょうか。公害や物価高の問題、職場にいけば賃金が安い、会社にしめつけられるなど、みなさんが生活していくうえでさまざまな問題にぶつかりますが、その根源はどこにあるのか」と問いかける。
不破(そして「進歩的知識人」たち)は、けっして語らなかったが、実際のところ、旧・ソ連や旧・東ドイツ、現・中国は、公害や自然汚染という意味では、日本よりもはるかに甚大な傷痕を残している(たとえば、世界4位のアラル海が干上がりそうになった)。
ソ連で庶民が生活していくうえでのさまざまな問題(物価高、賃金が安い、共産党にしめつけられる)はどうか? ソ連で人口(じんこう)に 膾炙(かいしゃ)したアネクドート・小咄(こばなし)をひとつ。
〈市民がパンを買うためには、長い行列に並ばなければならない。ついに、男の1人が怒ってこう叫んだ。「もう我慢ならない、俺はゴルバチョフを殴りに行く」と。しばらくたって、ショボンとした顔のその男が帰ってきた。並んでいた人はみな聞いた。「殴ってきたのか?」と。男は答えた。「あっちにも列が出来てた」。
解説:ソ連時代は、政府が「何を・どのくらい」作るのか全て決めていたのです。企業が決めることは出来ません。政府は、軍需生産を優先させ重工業製品(軍事品や機械など)に重点を置き、軽工業製品(衣類や食品など)の生産をおろそかにしました。
その結果、日用品が不足するようになりました。日用品店には朝から人が並び、数少ない日用品を買い求める姿が見受けられました。「行列」はソ連を象徴するものになったのです。〉(Webサイト・日常にツベルクリン注射を・・・から)