断章497
「自身の実践知(生活実感)だけで物事を判断してしまう人は、実践知(生活実感)から離れた知識を取り入れることによって自分の狭い実践知(生活実感)の世界を広げればいいし、知識だけあって実践知(生活実感)を持たない人(=大学知識人など)は、『自分の意見は机上の空論ではないのか?』と考えてみる必要がある」(橋本 治から敷衍)。
わたしは主張する。マルクスの思想(マルクス主義)は、「搾取と収奪、抑圧と差別、格差と疎外の資本制社会で苦しむなかで鍛えられたプロレタリアートは、自己と全人民を解放するための社会主義革命とプロレタリアート独裁に勝利して歴史的必然としてのコミュニズム(=地上の楽園)を実現する」というユートピア思想である、と。
マルクスは、衣食住のために働く現実的諸個人が織りなすブルジョワ社会の“解剖学”を完成したつもりだった。けれども、マルクスのような賢い人は、おおむね、賢い人との付き合い以外は、読書三昧の生活である(大学知識人も同じである)。だから、そんなマルクスの知っている“現実的諸個人”なるものは、わたしのような凡人の周りにいる「現実の諸個人」とは、別物である。マルクスの“現実的諸個人”は、実は現実的ではないのである。
人間(ヒト)は、容姿、気力、体力、知能、すべてが生まれながらにして百人百様、千差万別である。ここでは知能(ある目的達成のための新たな手段を考える能力とする)について見てみよう。
たとえば、「境界知能」。「境界知能」とは? 昔は知的障害と定義されていたIQ70~84の人で、学校のクラスでいえば、35名中、約5名いるとされる(日本人の7人に1人)。
このIQ69以下の知的障害には該当しない一定の支援が必要な「境界知能」や何かしらの課題があるけれどはっきりした原因や状態がわかりにくい「グレーゾーン」と位置づけられる、生きづらさを抱える子どもたちがたくさんいる。
たとえば、「志向意識水準」である。「志向意識水準」とは? 「ヒトは生後まもなく自己意識(一次の志向意識水準)をもつようになり、5歳で完全な心の理論を獲得し、10代のうちに成人と同じ五次の志向意識水準 ―― エドワードが〈なにか〉を意図しているとスーザンに信じてもらいたいとピーターが望んでいるとあなたが推測していると私は信じている ―― を理解できるようになる。チンパンジーの志向意識水準が三次なのに対し、正常なヒトの成人の志向意識水準は四~六次の範囲に収まり、六次の言明を理解できるのは20%ほどだという」(『人類進化の謎を解き明かす』)。
たとえば、わたしの経験……、ちゃんと家庭がある、公営住宅の自治会の持ち回り役員もしている、地元の少年野球のコーチもしている中年男がいる。彼に仕事の段取りを教えることになる。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてみる」。ところが、仕事の過程で少しでもイレギュラーなことが起こると、あわてふためいてすべてをグチャグチャにしてしまうのである。
マルクスは、この百人百様、千差万別の人間(ヒト)に対して、プロレタリアート独裁においては「擬制的労賃制度」によって、社会主義においては「その労働に応じて」、共産主義においては「その必要に応じて」、酬いるという。
だがはたして、人並み外れた知能を有する者(たとえば、ニボルマブの開発者)や昼夜をわかたぬ努力家が、凡人と同じような待遇・報酬で満足するだろうか? 当然、“区別”がされ、“格差”が生まれるだろう。だが、その“区別”は、誰が、どのように決めるのか?
たとえば、“中央計画経済機関”のようなものが存在して決定するとすれば、やがてそのうち、その“中央計画経済機関”の機関員(まさにアパラチキだ!)がこっそり(お手盛りで)自分たちの待遇・報酬を上乗せするだろう。
そうして、共産主義(コミュニズム)のユートピアは、競争のない停滞した陰鬱(いんうつ)な自由のない、アパラチキの思いどおりにならない「知能不足の反抗的な」“現実的諸個人”を排除するディストピアになるのである。