断章492
赤色全体主義(チュチェ思想)の特権階級が支配する朝鮮民主主義人民共和国。この国の軍国主義的官僚指令経済(ノルマと配給の経済)には、財の希少性の指標としての(資本システムに備わる)価格メカニズムがない。だから、経済を回すには、コネとワイロと裏経済が欠かせない。中国・毛 沢東時代のように市場開放や資本の導入を頑(かたく)なに拒絶しているので、経済はスムースに回らない。ひとつの政策ミスでたちまちガタガタになる。
たとえば、「2010年5月15日、北朝鮮がデノミ(通貨呼称単位の変更)を実施した2009年11月以降、抗議行動やこれに乗じた犯罪が続発し、これを受けて北朝鮮当局が今年3月までに複数の公開処刑を行ったことを明らかにした。(中略)
同筋によれば、北朝鮮東部の咸興では、デノミに反対する住民数十人が警官隊と衝突。警官に暴行したとして10人が捕らえられ、うち2人が昨年12月5日か6日、地元住民が見守る中で銃殺刑に処された。北部の咸鏡北道・清津でも同月8日、新旧通貨の交換を渋った地元当局に住民が抗議する騒ぎが起き、住民2人がその場で射殺されたという。また両江道の恵山では、中央銀行の支店長が新通貨で100万ウォン相当を横領した罪で、3月下旬に公開銃殺されたという。
さらに同筋は、デノミ失敗の責任を問われて労働党計画財政部長を解任された後、処刑されたと伝えられている朴 南基氏について、副部長1人と共に銃殺刑に処されたと述べた」(時事コム)。
まるで中世のような「血まみれ」にして脅しても、軍国主義的官僚指令経済の問題は解決できない。にもかかわらず、この軍国主義的官僚指令経済の国は、かつて「地上の楽園」とプロパガンダされていたのである。
「約60年前に始まり、9万3千人以上の在日朝鮮人たちが海を渡った『北朝鮮帰還事業』。『地上の楽園』と宣伝された地で多くが貧困と迫害に苦しんだ。広島市から北朝鮮に渡り、今は脱北し韓国・ソウルで暮らす朴 静順(パク・ジョンスン)さん(81)もその一人。日本在住の脱北者が北朝鮮政府を相手取って2018年に東京地裁に提訴するなど、今に続く問題だ。朴さんの言葉でたどる。
朴さんは、日本統治下の朝鮮半島から渡ってきた両親のもと、1940年に現在の広島市西区で生まれた。原爆投下時は広島県北部に疎開しており、被爆は免れた。戦後も両親と10人兄妹の暮らしは貧しかった。高校には進学せず無料の夜間学校に通った。広島市内の音楽喫茶『ムシカ』でアルバイトをして家計を助けた。『生活は苦しかったけれど恋もした。いい思い出です』。
1959年、日本と北朝鮮の両政府の了解で時間授業が始まる。植民地支配と戦争に翻弄され、貧困や差別を強いられてきた在日朝鮮人たちは、新たな生活を求めて海を渡った。ただ、現在の韓国・大邱広域市の出身だった両親は当初、前向きではなかった。
朴さんの家族が帰還事業と向き合うのは1960年だ。当時17歳の弟が在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の関係者から『ソ連の大学に進学できる』と説明され、帰還を強く望んだ。お金がなく学校に通えなかったからだ。両親と7人の兄妹は60、61年に次々と北朝鮮に渡った。朴さんと兄と姉の3人が日本に残った。
北朝鮮の実態をつづった告発本を読んでおり、帰還の意志はなかったという朴さん。1962年、北朝鮮の家族から『父がもうもたない』と手紙が来ると『どうしてもお父さんに会いたくて』。その年の12月、1人で新潟港から海を渡った。
北朝鮮北部の清津(チョンジン)港に降りてすぐ『ここは住むところではない』と悟った。真冬なのに市民は薄いもんぺ姿で震えながら歩いていた。帰還者の教育センターでは『ここから出たら何の不満も言ってはならない』と指導された。家族が住む新義州(シニジュ)市に着いた時、父はもう亡くなっていた。『帰還を後悔しました』。
横浜市からの帰還者の男性と1963年に結婚し、3人の子どもを産んだ。配給では食べていけず、福山市に住む兄の仕送りを家族で分けあった。日本から持ってきた服は食べ物と交換した。
『苦難の行軍』と呼ばれる1990年代後半の大飢饉で貧しさは一層増した。冬のある日、女性に食事を乞われた。夕食の残りをあげたが翌朝、女性は家の前で亡くなっていた。『彼女は最後に食事ができただけよかった』。そう思うほど道で飢え、凍え、亡くなる人が多かった。
3人のわが子のうち、息子2人は生死不明のままだ。長男は84年に21歳で学校に行ったきり帰ってこなかった。次男は94年に28歳の時、警察に連行された。2人とも国の不平を言ったために収容所に入れられたと思われるが、真実はわからない。理由を探ることも『息子に会いたい』と周囲に漏らすことも許されなかった。朴さんの兄2人も84年に収容された。1人は収容所で病死した。1人の生死はわからない。
次男と1994年に連絡を取れなくなった後、朴さんは夫と農村部へと送られ、生活はより厳しくなった。1997年7月に夫が亡くなり『脱北』を決めた。同年10月、台湾人ブローカーを頼って娘と娘の夫、2歳の孫娘の4人で川を渡り中国へ逃れた。大連市で1年半ほど暮らし、1999年5月、偽造パスポートで韓国へ入った。
ソウルの空港を出て車に乗っている時、ミュージカルの広告を見た。『これからはこういうの見ていいんだ』と思った。
韓国に移住し約20年。ミュージカルも見に行った。韓国のメディアでも証言してきたが、本名と年齢は初めて明かした。北朝鮮に残った兄妹たちへの影響をずっと恐れてきたが、今回『本当に起こったことを語り残したい』と決意した。『貧しい思いは日本でもしました。でも今思えば、広島は私の青春の場所でありがたい暮らしでした。自由があることが一番なんです』。(以下省略)」(2022/04/12 中国新聞・高本 友子)。