断章490

 フェラーリは、咆哮するエンジン、鮮やかなボディカラー、官能的なボディーラインをもつ、比類なきスポーツカーである。

 マルクスの学説(思想)は、たとえるなら、ブレーキの無いフェラーリである。

 魅力的な学説(思想)であるが、ブレーキが無いから、天才でもソロソロ動かすのが関の山、もし凡才が運転しようものなら間違いなく大事故(惨事)をおこす ―― 小さくは連合赤軍の同志殺しであり、スターリンの大粛清、毛 沢東の文化大革命クメール・ルージュポル・ポト)のキリングフィールドなどなど。

 

 「ブレーキが無い」というのは―― 、

 マルクスの学説(思想)には、プロレタリアートの「前衛政党」(指導部)が、高潔な前衛という主観的な思い込みをもちつつ、人間(ヒト)の心の奥底にある“欲望”に導かれて、権力の獲得前には“無謬”の指導部に見せかけようとすることを、さらには、権力を獲得した赤色党官僚が全体主義的支配を確立して特権的な新支配階級(赤い貴族)になることを阻止する論理(思想)が無いからである。

 権力の甘い蜜の前では、「コミューン4原則」なんぞ、あっさり捨て去られるのである。

 

 マルクスの学説(思想)は、ブレーキの無いフェラーリである。凡人の手に余る。だから、カニが自分の甲羅に似せて穴をほる(大きな蟹は大きな穴を、小さな蟹は小さな穴を砂に掘って住まいする)ように、マルクスの学説(思想)は、ロシアでマルクス・レーニン主義と呼ばれる穴になり、やがて朝鮮労働党は“主体思想”(チュチェ思想)という穴をほり、日本共産党は「科学的社会主義」という穴にしたのである。

 

 マルクスの学説(思想)は、ブレーキは無いが、フェラーリである。だから、斉藤某やら白井某という名前のカメラ小僧たちが寄ってくる。うっとうしいったらありゃしない。

 机上の空論を知っているだけで本当の戦いの苛酷さを知らない小僧たちが、はしゃいでいるのを見るたびに、わたしは、「過保護すぎたようね 優しさは軟弱さの言い訳なのよ …… 坊やイライラするわ」(♪中森 明菜)と歌わずにはいられない。

 

【参考】

 日本共産党とともに「マルクス・レーニン主義の“純潔”を守るために戦う」(1966年共同声明)はずだった朝鮮労働党は、「解放直後に絶対視されたマルクス・レーニン主義は次第に揚棄され、伝統的文化や思惟と共鳴し、独自のイデオロギー体系に転換した。1960年代後半からすでにマルクス・レーニン主義から遠いところにいた。

 その直接的契機は1967年5月の党中央委員会第4期第15次全員会議である。この会議で甲山派といわれた、解放前、金日成の指導下、北朝鮮で抗日運動を組織した共産主義者たちが修正主義者と批判、粛清され、また主体思想を唯一の指導思想としてそれに基づく体制、唯一思想体系を構築することが決定された。

 この会議後、首領に関する一切のものが登場した。『偉大な首領』、『父なる首領』という用語から、それを説明し、正統化するイデオロギー、首領を中心にした権力構造、その神話と神格化、歴史解釈の徹底、信条体系や文学芸術に至るまで支配する一貫した論理体系など、すべて首領の領導を実現することを目的とした体制が作られた」(古田 博司を再構成)。