断章475

 世界(と日本)は、1930年代型複合危機に向かって直進している ―― ナチス・ドイツによるズデーテン併合からポーランド侵攻への道のりと、ロシアによるクリミア併合からウクライナ侵攻への経過を見比べて見よ!

 かかる危機の時代にはびこるものは、デマゴーグや詐欺師である。

 かつて共産党系詐欺師たちは、「資本主義の全般的危機」論で大いに荒稼ぎした(すでに「断章463」で取り上げ済み)。彼らの衣鉢を継ぐ詐欺師たちは、今回の危機では、「資本主義の終焉」とか「資本主義からの撤退」をネタにしているようである ―― この連中は、「資本主義」という用語を、あいまいなままに、定義しないで、ご都合主義的に“印象論”で用いることが得意である(なぜなら、その方が詐欺に好都合だから)。

 

 詐欺師たちのおしゃべりは、たとえば、こんな調子である。「現代社会を支配している資本主義は、失業や環境問題など、人間の日々の生活基盤を脆弱なものにした。資本の論理に呑み込まれる以前、人間の経済は生活に根ざしたものであった」。

 古代の奴隷や中世の農奴の現実に目をつぶり、資本の論理に呑み込まれたら「人間の経済は生活にねざしていない」というバカ話である。そのおそまつさは、たとえば、江戸時代の平均寿命と現代日本の平均寿命を比較するだけでも明らかである。資本主義の発展と公衆衛生の向上が一体であることは、経済後進諸国の現状を見ても一目瞭然である。

 

 西欧で資本主義が拡大しはじめてから200年が経った。その間、最初の頃はほぼ10年毎に“恐慌”、そして50~60年毎に“巨大バブルの崩壊”、それに伴う“大恐慌”による失業者の大群が発生した。あるいは2度の“世界大戦”を含め累計2億人近い死者を出した戦争やジェノサイドがあった。にもかかわらず、なぜ資本主義は、世界中でここまで拡大してきたのか?

 

 資本制生産様式は、近世までは、砂漠に点在する小さなオアシスというより、雪の間からけなげに顔をのぞかせる「ふきのとう」という趣(おもむ)きだった。ヨーロッパ近世に入って、春のタケノコのようにしっかり地下茎を拡げ、やがて産業革命という春の嵐メイストーム)とともに、その全貌を現わした。

 その結果、「1825年、イギリスにおいて、工業のGDPが農業のGDPを上回った。これは人類史上、初の大転換である(ちなみに、プロイセン王国では1865年、アメリカでは1869年、フランスでは1875年にこの大転換が訪れた)。 19世紀初頭、食糧はイギリス人世帯の消費割合の90%以上を占めていたが、1855年にはその消費割合は全体の3分の2に低下し、衣服に対する消費割合は倍増した」(ジャック・アタリ)。

 

 「資本主義とは、資本家と労働者という経済的な主体が、ごく基本的な需要を満たすためにも、市場に全面的に依存するシステムである。(中略)

 このシステムでは競争のもとで生産することが基本的な条件となるのであり、このシステムの全体がこうした命令のもとで機能する」(『資本の帝国』)。

 このシステムこそ、人間(ヒト)の普遍本質である〈飽くなき欲望〉を大衆的なレベルで追求できる歴史上初めてのシステムであり、現在の経済的社会構成体の内部には、これに替わるシステムは、今なお(技術的にも、生産力的にも)胚胎していないのである。

 資本主義になって歴史上初めて、「わたしたち一人ひとりがかけがえのない生命をもっており、自由な存在として生きることができる」と、おおっぴらに公言できる時代が勝ち取られたのである。だから、今日なお、資本主義が“ラスボス”なのである。