断章472

 資本制社会以前の社会。たとえば、「ローマの奴隷たちは自分たちの労働のあり方について不満を抱いていた。一方、教養あるローマ人は、鎖につながれて厳しい監視下に置かれた奴隷が一日中働くことを、当たり前だと考えた。奴隷たちが私生活をほとんど持てないことや、彼らが自分たちの労働力を回復させるための必要最小限の食事しか与えられないのは、当然のことだったのだ。

 そのような奴隷に対する厳しい態度は、ローマ文明固有のものではなく、また奴隷社会特有のものでもなかった。産業社会以前の社会では、こうした態度は全く珍しくなかった。(中略)

 紀元前一世紀末のアウグストゥスによる統治時代には、イタリア人口の少なくとも35%は奴隷だった。ローマ帝国では、奴隷の購入価格はあまり高額ではなかった。当時、個人の資産額は数千万セステルシウス(古代ローマの通貨単位)に達する者もいた一方で、奴隷の値段はたった1000〜2000セステルシウスだった」(『経済と人類の1万年史から、21世紀世界を考える』)。

 

 一方、今日の自由な資本制社会は、「好きなことだけで自由に生きる」「誰もが『人と違うこと』ができる時代」―― 現実には、肉体的・知能的・金銭的などの諸制約があるとしても ―― だと言われている。少なくとも、誰もが自由に人生を選択して自己実現できる社会であるべきだということは、当然視されている。それは、資本制社会が〈自由〉に至高の価値を与えているからである。

 わたしたちは自由を得た。だが、「何かを得るためには何かを失わなければならない」。

 わたしたちは、今や生まれた場所に一生住むような伝統社会と別れて、孤立した寄る辺なき者になった。だから、『「ひとそれぞれ」がさみしい』(石田 光規)。

 

 この自由な資本制社会における資本の論理は、市場原理である。市場原理(market principle)とは〈競争〉を通じた淘汰の法則である。すべてが〈競争〉によって決定される ―― それは、365日・24時間、気を抜くことのできない熾烈な競争である。敗れれば、いかなる国、どんな有名企業も、学校秀才も没落する。

 熾烈な競争に勝とうと思えば(競争から逃げれば失うものが多い)、365日・24時間、戦わなけれならない。当然、心を病んだり身体を壊す者も増える。そして、どんなに頑張っていても、恐慌(大不況)が来れば、倒産・失業を免(まぬが)れることは、なかなか困難である。