断章437

 日本共産党とは何か? 創立100年を迎えた日本共産党は、わたしたち民草をどうするのか? 繁栄に導くのか、それともむさぼり食うのか?

 不破 哲三 ―― ペンネーム、本名は上田 建二郎。日本共産党中央委員会常任幹部会委員、党付属社会科学研究所所長 ―― は、かねがね、研究・分析のためには、「歴史を振り返り、世界に視野を広げなければならない」と言っている。

 そこで、今回は、日本共産党が、いったい誰を「同志」と呼んで、ぐるになっていたか?

 そうした歴史の一コマを振り返り、理解・研究を深めるための助けとしよう。

 

 Wikipediaウィキペディア)には、「同志とは、志を同じくする仲間を指す言葉であり、そういった仲間への呼びかけ、敬称としても用いられる。ただ、漢字文化圏を除けば単に『仲間』を指す言葉を文脈によってそう翻訳するのであり、『戦友』などとも訳しうる場合が多い」とある。

 

 ここでは、不破 哲三に登場してもらおう。

 東ヨーロッパ、バルカン半島東部にルーマニアという国がある。この国では、「第二次世界大戦後、ソ連軍の圧力下で王制を廃止し、1947年にルーマニア民共和国が成立した(1965年にルーマニア社会主義共和国と改称)」。

 「ルーマニアでは、ニコラエ・チャウシェスクが、1960年代から80年代にかけての24年間にわたり、ルーマニア共産党政権の頂点に立つ独裁的権力者として君臨した。統治前半期の1960年代後半から70年代にかけては、『自主独立路線』を唱えて共産圏にありつつもソ連から距離を置いた」。

 「ところが、1980年代に入ると、強権的な統治や個人崇拝、国民生活の窮乏に対する内外の批判が高まった。1989年の東欧での共産党政権の崩壊の最後を飾る流血の政変によって権力の座を追われ、国外逃亡を図ったが拘束され、チャウシェスク夫妻は大量虐殺と不正蓄財の罪により死刑判決を受け、即日、銃殺された」(以上、Wikipediaを再構成・引用)。

 

 不破 哲三が、ここルーマニアを訪問したのは、1984年、すでにヨーロッパではチャウシェスクの強権政治が知られつつあった頃のことだ。訪問後のインタビュー記事の題名は、「社会主義ルーマニアを訪ねる」である。

 不破は言う。「私はルーマニア訪問は初めてで、ヨーロッパの社会主義国を訪問するのは1982年のユーゴスラビアにつづいてこんどが二度目なんですよ」と。

 えーっ、なんという不幸なめぐりあわせ! (笑い)

 訪問した最初の“社会主義国”が、あの激しい内戦になったユーゴスラビア ―― ユーゴスラビア社会主義連邦共和国解体の過程で起こった一連の内戦。1991年から2001年まで継続した ―― で、次に訪問した国が、銃殺されたチャウシェスクルーマニアだったなんて。

 「運が悪い」と思うのは、日本共産党員と同伴者だけである。「科学的社会主義」を自称するけれども、当時のユーゴスラビアルーマニアに対する「科学的分析」が皆無で、ユーゴやルーマニアは“社会主義国”だという“ドグマ”を信じた結果なのだ。

 

 不破が訪問した頃のルーマニアは、「徹底した言論統制下にあり、テレビもラジオも共産主義の宣伝番組か、偉大なる指導者のチャウシェスク同志が工場訪問して労働者を激励する等、チャウシェスク大統領の活動を報じるのみであった」(福井 康人)。

 チャウシェスクに、親しく「同志」と呼びかけたのは、ルーマニア共産党の宣伝機関だけではない。日本共産党不破哲三もそうしたのである。