断章411

 「英国は永遠の友人も持たないし、永遠の敵も持たない。英国が持つのは永遠の国益である」(19世紀の英首相パーマストン)。

 

 弱肉強食・優勝劣敗の過酷な世界で、まともな主権国家は、〈国益〉〈国防〉の追求に日夜心を砕いている。

 だから、ロシア制裁の足並みが一致するとは限らない。

 「ロイター通信は14日、インドがロシアから原油を低価格で購入することを検討していると報じた。ロシアが大幅に値下げした価格で持ちかけたという。インドはロシアとは軍事的な関係が強く、今回のウクライナ侵攻でもロシアに一定の配慮をしてきた。(中略)

 欧米の制裁を受け、ロシア産原油の輸入に慎重な姿勢を示す国や企業が相次ぐ中、インドが実際に購入すれば、制裁の抜け穴になる恐れがある」(2022/03/15 読売新聞オンライン)。

 インドだけではあるまい。大きな声では言わないが、ロシアの同じような申し出に揺らいでいる国が多くあるに違いない。

 そもそも、EUにしても、「2027年までにロシア産エネルギーへの依存ゼロを計画」というが、それまでに何回冬を越さなければならないことか! プーチンは、その足元を見て、「西側の民主主義諸国が長期間の対峙に備えた胆力を持ち合わせていないことに賭け」たのだ。

 

 しかし、ロシアと距離的に近い国々は、切実である ―― そして、ロシアは日本の北海道の鼻先でミサイルを構えていることも忘れてはならない。

 「チェコのフィアラ首相は15日、ウクライナの隣国ポーランドのモラウィエツキ首相、スロベニアのヤンシャ首相と共に、ウクライナの首都キエフを同日訪問すると明らかにした。ゼレンスキー大統領らと会談し、『欧州連合EU)全体としてのウクライナの主権と独立への明快な支援』を伝達すると強調した」(2022/03/15 時事通信社)。

 

【参考】

 「チェコのフィアラ首相、ポーランドのモラウィエツキ首相、スロベニアのヤンシャ首相が15日にウクライナキエフを訪問する意向を表した。現在、首都防衛戦の真っただ中にあるキエフに訪問するこの決意は、ノーベル平和賞を受賞したことのあるヨーロッパ連合の基本的な価値観である『平和』と『民主主義』を示すものと理解できるだろう。ウクライナはそうしたもののために戦っていると考えることができ、それにたいするヨーロッパ連合としての連帯を、危険を伴いながら示す行為は意味のあるものといえるだろう。

 そして忘れてはならないのは、これらが必ずしも大国ではないという点である。また、これら国家は小国ゆえに大国に翻弄されてきた経験も持つ。大国を中心として語られる国際政治の中で、これら小国の首脳が、現代の国際社会の一つの価値観、平和を志向する国際社会の目指すべき理念を示すということの意味は計り知れない」(白鳥浩・法政大学大学院教授)。

 

【参考】

 「AERAdot」(朝日新聞出版のニュース・情報サイト)に、3月9日の日付で哲学者・内田 樹が、「ロシアのウクライナ侵略についていろいろな人から意見を求められる。門外漢だから語るべき知見は持ち合わせていない。しかし、近しい人に訊(き)かれたら何か言わなければならない」と、普段は“全知”の上から目線なのに、今回は珍しく謙虚さを装っている。

 「とりあえずウクライナ映画(およびウクライナを舞台にした映画)を6本観(み)た。ある国の人々が『自分たちを何ものだと思っているか』を知るためには彼らが繰り返し語る原型的説話に当たるのが捷径(ちかみち)であるというのは私の経験的確信である。

 ランダムに選んだ6本のうち3本が『ロシア(ソ連)との戦争』の映画、2本がスターリン時代のウクライナ飢饉(ききん)とカニバリズムのトラウマを描いた映画、1本がソ連崩壊後のウクライナの道義的堕落を伏線にした映画だった。戦争映画はどれも『ロシア(ソ連)が侵略してきたので、市民が銃を執って祖国を英雄的に防衛する』話だった。

 これらの映画がどこまで歴史的事実を正確に映し出しているのか私にはわからない。当然かなり美化されているだろう。

 だが、ウクライナの人々がこのような物語を繰り返し服用することによって国民的アイデンティティーを基礎づけてきたのだとすれば、今回のプーチンの侵略についても、多くの国民は強い既視感を覚えたはずである。『また映画と同じことが起きた』と。そして『映画の登場人物たちはこのような状況でどう行動したか』を参照しつつ、それを再演するにせよ変奏するにせよ、自分の次の行動を決定したはずである。

 興味深かったのは戦争を描いた映画が必ずしも『ウクライナの英雄的愛国者対鬼畜ロシア・親露派』という単純な善悪二元論ではなかったことである。ウクライナ兵同士でも銃を執った動機が違い、あるべき国の理想像が違い、歴史解釈が違い、議論し、罵(ののし)り合う。一方、ロシア兵や親露派にも必ず侵略の大義名分や個人的な厭戦(えんせん)気分を語らせる。さまざまな視点を提示して、観客に『誰に理があるか、あとは自分で考えてくれ』と差し出すというタイプの戦争映画だった。映画を観て、ウクライナの人々がこれまでずいぶん苦労してきたこと、その経験によってある種の政治的成熟を遂げたということだけは私にもわかった」。

 

 わたしは、「So what? だから?」とつぶやいた。この人は、思想家でも哲学者でもない。「この人は評論家ですね」。