断章389

 「歴史を学ぶと、我々が歴史から学んでいないことがわかる」(ヘーゲル)。

 

 「ある人間が征服や不滅、死後の再生という空しい欲求にとり憑かれ、それに悩まされたとき、彼はこのような熱望にたいして思いがけない解決を与えてくれるひとつの観念を見いだす。それは、たとえば復活や千年王国という観念であり、人民主権という教義であり、社会契約にかんするいくつかの定式である。彼はこのような観念にしがみつき、それが彼を高揚させる。こうして彼は使徒になる。政治的、宗教的な伝染はこのようにして起こる。かつての全国民のキリスト教イスラム教への改宗もそのように進み、また今後はおそらく社会主義への改宗もそのように進むだろう」(『模倣の法則』)と、タルドは言った。

 

 1890年代のロシアでは、「猫も杓子(しゃくし)もマルクス主義者となり、マルクス主義者はお追従を並べられ、下へも置かぬ扱いを受け、出版業者はマルクス主義的著述の法外に早い捌けぶりにホクホクものであった。だからホヤホヤのマルクス主義者の中には、あまりうまく当たったので頭が変になった著述家も、一人や二人ではなかった」(レーニン)のである。

 

 現代のインテリは、「征服や不滅、死後の再生という空しい欲求にとり憑かれ、それに悩まされ」ているわけではない。しかし、インテリというものは、第一に、「その政治的精神の本質は、国家支配からの自らの孤立をなくそうとする傾向のなかにあり、その立場は抽象的理念の立場であって、現実生活から切り離されて存立して」おり、第二に、「ヒューマン・サイエンスにおけるその視野の広さやその思想的源泉の豊かさにおいて、マルクスに匹敵しうる知的伝統は他にはない」と単純に信じており、第三に、論壇・教壇において口舌で生活の糧を稼がなければならないので、“体系的教義”として解釈・解説・利用しやすいマルクス(主義)やコミュニズムにどうしても惹きつけられるのである。

 だから、彼らインテリが混乱・衰退・腐朽・行き詰まり・転機の“風”を感じるたびに、論壇・教壇ではマルクス(主義)リバイバルが発生する。今また、同じようなことが起きている(たとえば、斉藤某の『人新世の「資本論」』などもそのたぐいであろう)。

 これらのインテリは、いかさまな、あるいは狡猾(こうかつ)な連中である。というのは、彼らは、「共産主義者は、自分の見解と意図を隠すのを恥とする。共産主義者は、彼らの目的がすべてのこれまでの社会組織の暴力的な転覆のみによって達成されることを、公然と宣言する。支配階級は、共産主義革命の前に戦慄せよ」(『共産党宣言』)というマルクスの〈信仰告白〉を知っているのに、それを隠したり知らないふりをしているからである。

 

 「“資本主義”とか“新自由主義”といった言葉を使って、何かを考えたかのように勘違いしている人が多いことが残念だ。おそらくは、十分に考えていないか、言葉を発したこと自体に酔っている。それにしても、“資本主義”というもっともらしい言葉を発明した人はつくづく偉い。筆者も含まれるのかもしれないが、いったい何億人がこの言葉とかかわることで飯を食えたのだろうか!」(山崎 元)。