断章386

 平岡 正明は、「山口 百恵は菩薩である」と言った。わたしは、「マルクスは、ブレーキのないフェラーリである」と言おう。

 マルクスを読むと“やられる”インテリが沢山いる。前から見て横から眺めて、そしてボンネットを開けて、彼らは言う。「なんて官能的で素敵なボディなんだろう。なんとパワフルで素晴らしいエンジンなんだろう」。

 ついつい走らせてみたくなる。ところが、このフェラーリにはブレーキがない。だから、高速道路に乗り入れたりすれば ―― 革命の道具にしたりすれば、間違いなく多くの人々を巻き込む「大惨事」を引き起こすのである。

 マルクスに惚れこんだインテリには、欠点が見えない。あばたもえくぼに見える(Wikipedia:相手を好きになった人の目には、天然痘が治癒した後にも顔面に残る発疹の跡である「あばた」でも、相手の顔にあれば笑うと頬にできる窪みである「えくぼ」のように見えるということから、相手に惚れていると相手の欠点すらも長所に見えるということを指すことわざ)。

 

 マルクスは、コミュニズム共産主義)について、「人間の自己疎外としての私有財産の積極的止揚としての共産主義。これまでの歴史的発展の全成果の内部で生まれてきた完全な自己帰還としての共産主義」は、「人間の自然な本性に基づく自発的な関係による社会」であるから「人間と人間とのあいだの抗争の真実の解決」(『経済学哲学手稿』)だと言う。

 夢物語というしかない。

 

 人間間の抗争が絶えることは、けっしてない。

 なぜなら、第一に、「スターウォーズ」が教えるように、人間には際限のない欲望(それには、愛や善意や名誉欲も含まれる!)あるがゆえに、暗黒面(ダークサイド)に堕ちることがあり、第二に、ホームズに向かってモリアーティ教授が言ったように、「この世界から争いが絶えないのは、自分が正しいと思う者同士が起こすから」なのだ。