断章340

 「不快なものには近寄らない、危険であれば逃げていく。この単純きわまる行動原理こそ、高い移動能力を発達させてきた動物の生きる基本戦略である。

 しかし、快なる場所に集まる動物は、そのためしだいに多くなり、ついに、あまりに多くなってしまえば、この楽園の食料も乏しくなり、そして排泄物に汚れた不快な場所に変わるだろう。侵入してくる他の動物を追い払って縄張りを主張することも、また多くの動物社会に見られることである。

 サルや類人猿たちは、あまり大きくない集団を作り、一定の遊動域のなかを移動して暮らしている。集団を大きくせず遊動域を防衛することで、個体密度があまりに増加するのをおさえ、そして頻繁に移動することによって環境の過度な荒廃を防ぎ、食べ物にありつき、危険から逃れるのである。このようにして霊長類は、数千万年にもわたって自らの生きる場を確保してきたのである。

 霊長類が長い進化史を通じて採用してきた遊動生活の伝統は、その一員として生まれた人類にもまた長く長く受け継がれた。定住することもなく、大きな社会を作ることもなく、希薄な人口密度を維持し、したがって環境が荒廃することも汚物にまみれることもなく、人類は出現してから数百万年を生き続けてきた」(『人類史のなかの定住革命』西田 正規)。

 

 わたしたちの太古の祖先は、「バンド」を組んで、大型動物を狩り野生の果物・植物を採集しながら地球上に広がった。バンド社会には、自由な「遊動」生活があり、集団内は平等だった ―― というのは、「持てる者は食料を分配し、道具を頻繁に貸し借りし、そして人への過度の賞賛さえも控えて維持される平等主義的な社会原理」は、そもそも余分な資源や、それを貯蔵する技術が存在しなかったこと、また外部の別の集団と闘うためには集団内部で争っている余裕はないからである。

 もしも、自然が豊かで人口が少ないままであれば、人類は「遊動」生活を続けただろう。

 だが、人類は、大型動物を狩り尽くし、もっとも望ましい遊動域の占有をめぐる他集団との絶え間ない抗争の結果、「今からおよそ1万年前頃、人類は遊動生活を捨てて定住生活を始めた」。

 

 「定住生活が出現する背景に、氷河期から後氷期にかけて起こった気候変動と、それに伴う動植物環境の大きな変化が重要な要因となったことは、定住生活がこの時期の中緯度地域に、ほぼ時を合わせたかのように出現していることからも明らかなことである。(中略)

 氷河期が去り、地球が再び温暖化して、温帯環境が拡大を始める。定住生活者が現われるのは、いずれも拡大してきた温帯の森林環境においてであった。定住生活は、中緯度地帯における温帯森林環境の拡大に対応して出現したのである」(同上)。

 「およそ1万年前に定住生活が出現してきたことに連動して、定置漁具(注:ウケやヤナや漁網)の使用と食料の大量貯蔵の始まることが指摘できるが、ヨーロッパ、西アジア、日本、北米など、定住生活者が出現してきた中緯度環境において、食料の入手の最も困難な季節は冬であり、貯蔵食料が消費されたのも主に冬と考えてよいだろう。また漁撈活動は、普通には温暖な季節の活動だろう。そして、定置漁具にかかる魚類を消費しつつ稼いだ余剰の労働力を食料の大量保存に 投下しようとするなら、定置漁具をかけた漁場の近くに定住集落を構えることが望ましい。アイヌ、北米の北西海岸やカリフォルニアの諸民族、『大河流域の漁撈民』などは、いずれも定置漁具と食料の大量貯蔵を組み合わせたこの戦略によって定住生活を営んだ。そして同じ生計戦略は、日本をはじめ、北米、ヨーロッパ、西アジアなど、中緯度地帯における初期の定住者が採用した戦略でもあった」(同上)。

 

 「人類が定住するについて、採集から栽培への移行が強調されるのであるが、しかし、栽培は、定住することによっておのずと変化する人間と植物の生態学的関係を経て生じたものと考えられる。すなわち、栽培は定住生活の結果ではあっても、その原因であったとは考えられないのである。人類史における初期の定住民は、農耕民ではなく、日本における縄文文化がそうであったように、狩猟や採集、漁撈を生業活動の基盤においた非農耕定住民であっただろう」(同上)。