断章317
「人間とチンパンジーは、共通の祖先から進化したものの、その祖先たちがどのような見かけだったのかは、はっきりとわかっていない。化石による記録は、共通の古代の祖父母たちは、今日の人間よりもチンパンジーの姿にずっと近かったことを強く示している」(ウィリアム・フォン・ヒッペル)。
しかし、原始人から原人、旧人、新人へと進化するにつれて、ヒト属(ホミニン)の脳容量は大きくなっていった。
「進化の歴史の中で、哺乳類の時代になり大脳新皮質が増大し、特に霊長類では、大脳新皮質は飛躍的に増大拡大していった。大脳新皮質の増大の進化的要因は、群れの生活での情報を収集するためであり、群れが大きい動物ほど大脳新皮質の占める比率が高い。ヒトでは、脳全体の8割が新皮質であり、この新皮質の中の前頭連合野が高次の認知や思考・判断・言語・推論を行っており、精神活動を営む中心的な脳領域へと進化したのである。前頭連合野は系統発生的にはヒトで最も発達した部位であり、個体発生的には最も遅く成熟する。
つまり、ヒトはチンパンジーと分岐した後、500万年から700万年かけて、複雑な群れでの情報収集と情報交換のために、音と意味を組み合わせた言語音声をつくり、言語情報を制御する新しい神経回路を進化・発展させた。これが大脳新皮質、大脳連合野なかでも前頭連合野の飛躍的な増大につながったのである」(網野 ゆき子)。
脳の増大を可能にしたものは何だったのだろうか?
「近年のゲノム解析で、チンパンジーなど他の哺乳動物にあってヒトでは失われたDNA配列が500カ所以上見つかった。そのうち3つの配列は遺伝子を調節するスイッチとして機能していた。
ヒトの遺伝子は、全部がすべての細胞で常に活性化しているわけではない。細胞によって異なる活性パターンをとることで、体の各部分がうまく発達し、それぞれ違った機能を持つようになる。遺伝子をオンにするスイッチは『エンハンサー』と呼ばれる。1つの遺伝子に対し、それを制御するエンハンサーが複数存在する場合があり、これが場所ごとに遺伝子の活性を変えている。他の動物にあってヒトにないスイッチは、ヒト特有の形質をもたらしたと考えられる。
1つの欠失は脳の成長を促し、別の1つの欠失は夫婦の絆を深めたとみられる ―― この欠失によるペニスの棘(陰茎棘)の消失は、人類進化の道筋に大きな影響を及ぼした変化の1つだと考えられる。霊長類の過去の実験では、陰茎棘を除去すると交尾時間がざっと1.7倍に伸びることが示されている。このことから、陰茎棘の消失は、棘のあった祖先よりも性行為を長く、ひいては親密なものにした変化のひとつだったと思われる。もう1つのスイッチの欠失は直立歩行を促進したとみられる」(『人間らしさの起源』別冊日経サイエンス242)というP・L・レノたちの仮説がある。
大きな脳を持ち、「考え、学習し、意思疎通し、環境を制御する私たちの能力が、人間を他のいかなる動物とも全く違う存在にした」(同前)。
その結果、「私たちは、理性を讃(たた)え、曖昧で厄介なものとして情動を見下す時代に生きている。とはいえ、ヒトという種の基本的な欲求や願望、こだわりを避けて通ることはできない。私たちは血と肉からできているので、食物、セックス、安全を筆頭に、特定の目標を追い求めるように駆り立てられる。それを考えると、『純粋理性』という概念全体が、純粋な作り事のように見えてくる。裁判所の判事は昼食の前よりも後の方が寛大であることを示す研究の話を聞いたことがあるだろうか? 私にしてみれば、人間の論理的思考力など、突き詰めればこの程度でしかない。合理的な意思決定を、心的な傾向や無意識の価値観、情動、消化器系から解放することは事実上不可能なのだ」(フランス・ドゥ・ヴァール)。